あふれかえった本をどうするか

最近は(結構前から?)noteがすっかり流行って、はてブはオワコンになりつつあったりするんだろうか。インターネットとともに育った日陰人間としては流行り廃りのサイクルが早いのもなんか寂しい。その割に自分が生まれる前に始まったエヴァとかは今でも根強い人気があったりする。不思議ではないが、残らなくても別に困らないようなものもなんだかんだ残るような、余裕のある社会であってほしい。

 

最近、本棚がいっぱいになって本が床に山積みになっている。それほど読まない本は自炊し、いつでも参照できるようにして売ってしまうか(このためにNAS構築まで真剣に考えた)、あるいは本棚を増やすか。自分の中で答えが出ているような、出ていないような、微妙な状態でまる一日悩んだ(ということはまったく答えは出ていないということになる)。

最近読んだ千葉雅也の『勉強の哲学』は、本は紙でなければいけないという(※余談だが、この本で引用されている小笠原鳥類の詩が良くて印象に残っている。こういうところのチョイス、流石と思った)。紙の本はネットで出されたものと違って容易に修正がきかないから、よりしっかり作られる可能性が高いと。

なるほど、それはもっともだ。では、紙の本をスペース削減のためスキャンし、データにして「コンパクト」にするのはどうだろう。これはミニマリズムというやつになるだろう。生活の効率化を図り、「必要なもの」のみで生きるライフスタイル。

自分にはものが少ない方が好きな一面があると思う。まず第一に、考えることが少なくてよい。スティージョブズのファッションが毎日同じなのもミニマリズムの一つといえる。特に見てくれに関することに疎い自分は、ファッションについてはこれと決めたベストな組み合わせをずっと使用し続けることに惹かれる。楽そうだし。

 

だが、それでいいのだろうか。ミニマリズムで想定される「必要」は、本当に自分にとっての「必要」を満たしているのか。

これは素朴な認識に端を発する実にシンプルな疑問だ。例えばこうして文字を打っているということを「文字を打つ」と表現すれば、そこからは無限ともいえる量の情報が切り落とされているように感じる。いつどこで、誰が、何を使って、何に打っているのか。そういうことを考えるだけでも、事実と文章には相当な情報量の差があるのがわかる。自分の目的に合わせて、必要な情報を文に盛り込むのだ。

同じことが生活の様式にもいえる。ミニマリズムで色々なものを「不必要」と切り落とすことは、自分にとって許容できない大切なものを生活から奪ってしまっていないか。紙の本がデータになることで自分にとって失いたくない何かが失われるのではないか。悩みの種となっているのはつまりこういうことである。

 

実は、ここまでくれば自分の中でもう答えは大体出ている。以前にも自分はミニマルを好むか、マキシマルを好むかということについて考えたことがあったからだ。そのときも、マキシマルを好むしか、自分にはありえないのではないか、という結論にたどり着いた。

したがって今回も、紙の本のままで保存し、本棚を増やすのだろう。上で問いかけたように、紙の本がデータになることは、本というものから自分にとって大切なものをなくしてしまうことであるように思えるからだ。

別に唯一これ、という失われる何かを想定しているわけではない。だが、もし「不必要」な本をデータにしてしまえば、例えば神保町の本屋にふらふらと立ち寄って、探していたわけでもない本をなんとなく買う、ということは減ってしまうと思う。そうなれば、誰かの偏執的な書き込みに出会うこともなくなれば、本の古さからその歴史に思いを馳せることもなくなってしまう。それがたとえなんでもないような本でも、本を選び、買って帰り、胸を躍らせながら読むというのが好きなのだ。読み終わったそれを本棚にしまい、ある日また引っ張り出して読めば、そこには本の内容だけではなく、自分がそのとき何を考えていたのか、というような記憶まで保管されている。そういう素晴らしいことを、スペース省略のために失うのは、自分にはコストがやや大きすぎるように思われる。

 

そういうわけで、結局のところ自分はやっぱりミニマルな生活に向いていないということがわかってくる。この問題に直面したときに、悩みながらも答えが出ているような気がしたのはこのためだった。自分はマキシマルな生活から絶対不可欠とはいえない「良さ」を捨ててミニマルに生きることができるか、という以前にも考えた問いに置き換えてしまえば、答えはすでに出していたということだ。また似たような問題に直面したときのため、生き方の大まかな方向性を決めておくということは役に立つように思う。

ただ、ファッションに関しては本当にわからない。そこに素晴らしい世界が広がっているであろうことは知っている。いつかその世界にも足を踏み出せれば、きっとマキシマルな選択をせざるを得なくなるのかもしれない。必要でなければ残さなくていいという考えは、自分には向いていないようだ。いつまでもそういう余裕をもって生きていきたい。