性と音楽

アンサンブルというのは、ある意味で性のあり方ではないかと思うことがある。というのも、人間が生まれたときに、生物的に男か女かどちらかとして生まれてくるように、アンサンブルをする際には、それぞれの楽器の特性と不可分な演奏者として生まれ直す必要があるからである。そして演奏の際には常にそれぞれの楽器の「性」の範疇で他と交わることになる。

男は男に憧れることは、ドラマーがドラマーに憧れるのと同じである。ドラマーにしかない(技術的かつ音楽的な)魅力を見出すように、男にしか見出しえない魅力に惹かれる(そんなものが実際にあるのかは知らない)。ドラマーがピアニストに感じる魅力は、ドラムではなく音楽そのものに属する。男が女に感じる魅力は、性別ではなく人間性そのものに属する(これは当然男にも感じうる魅力である)。まあ、このような区別は、音楽そのものの魅力とドラムの音楽における魅力の区別の困難さや、人間性の魅力と性別特有の魅力の区別の困難さを考えれば、大した話ではない。どちらも、音もしくは性別が違うだけで、根本的な音楽へのアプローチや人間性は同じともいえる。

アンサンブルと性行為はどうだろうか。ドラマーはドラマーに憧れるものだが、そのドラマーと共演することは基本的にない。よしんばツインドラムとして共演したところで、両者の役割は異なってくる。まったく同じ役割を担う二者は必要ない。これは他の楽器についても同じことがいえる。

男はどれほど男に憧れても、性行為を行う相手は女である。よしんば男同士で行為をしたとして、タチ、ネコという役割の区別が生じることになる。

つまり、どちらも同じ役割を持つ二者が同じ場に存在することがない。性行為もアンサンブルも、それが生まれた時点で決定している。このような構造がいびつだと日頃からなんとなく思っていた。同性に魅力を感じるということは、生まれたときに与えられる性とどのような関係があるのだろうか。

 

ちなみに、アンサンブルは実際の性行為よりも多様なあり方が可能である。ジャズの場合、特にピアノやベースは、フロント楽器やドラムの有無でその役割が大きく変わるともいえる。ドラムやフロント楽器にも、前の二つほどではないにせよ同じことがいえ、人間の異性愛、同性愛よりも柔軟な交わりができる。