史学の意義

私は思いついたことを何でもノートに書き留める習慣がある。普段は書いてそれっきりなのだが、先日ふと思い立って2年ほど前のメモを読み返すと、「ロックは単純観念から複雑観念が原子が分子を構成するようにできていると言ったが、正確には単純観念からある程度雑に情報を切り捨ててまとめたものが複雑観念だと思う」と書いてあるのを見つけた。

この思いつきがロック理解として正確かは判断しかねるが(多分間違っている)、少なくともこのメモが意図するところには私にとって重要な見方が含まれている。それは、我々の生きる世界の具体性であり、そのどの一点をとっても比類なき唯一性を持っているということである。ここ最近このような考え方を意識していなかったことに気が付いた。

 

この頃の私は、世界を情報のスープのように捉えていた。この世界こそが最も具体的であり、あらゆるものはここから生じてくる。したがって言語に関しても、具体的世界から必要な情報を抜き出した、つまり抽象化したパッケージのような役割を与えられるに過ぎない。例えば「机の上にコーヒーカップがある」という文は、世界から細部を捨象して構成された情報ということになる。言語は、具体的世界の何物かをとりあえず意味するために用いられる道具なのである。

では、その何物かとは一体何か? さしあたりそれは、具体的世界で意味を付与されるのを待っているsomethingと呼べるだろう。このsomethingこそすべての源泉なのだから、それは我々が言語を用いると用いないとにかかわらず、厳然とあるのでなければならない。逆に言えば言語は、言語に先立つ具体的世界が措定されたのち、そのうちの何かを意味するために生じてくる。

しかし、具体的世界、意味される対象は、意味するものなくして特定されることが可能な何かであり得るのだろうか? この問いに然りと答えることは可能かもしれない。それは現象学ソシュールが進んだ道だろう。しかし少なくとも私には、それは無理のある主張のように思えた。言語が「何を意味したいのか」ということを明らかにするためには、まずもって言語がなくてはならない。このことを無視して具体的世界なるものがあるはずだと考えることは、言語を用いて思考する我々にとってはいわば越権行為なのである。

 

こうして「スープ理論」は私の中で挫折し、しばらく放置されていた。しかし最近は、世界の豊かさを示す倫理的な比喩としては、「スープ理論」は依然として意味があると考えるようになった。

ドキュメント72時間という番組がある。これはある一つの現場にカメラを据え、72時間の間にそこで繰り広げられる人間模様を観測するというNHKの番組である。対象は居酒屋や弁当屋に始まり、コインランドリー、駐輪場や離島に至るまで、多岐に渡る。毎回この対象のチョイスが絶妙で、およそ40分の間に、その場でだからこそ見られるような出来事や人々の暮らし、悩みが描き出される。

この番組を観て感じるのは、人々がまったく独自の場所で独自の人生を生き、それらは他のどの場所や人生と比べても、同一のものが存在しないということだ。どんな平凡な生活や平凡な悩みにも、そこには必ず独自の文脈があり、それゆえ魅力がある。

 

私が見ているこの自然の美しさや生きている生の素晴らしさが、言語のようなもので一体どのようにして代替されようか。そう考えたくなるのはそれほど不自然なことではない。「スープ理論」も、もとはと言えばこうした直感から得られたものだった(もとより私がいっときでもこうしたオプティミズムを獲得したのは、ある外的要因を触媒としたからなのだが、ここでそのことについて公然と言及するのは避けよう)。

また、私が見えていないと思っている世界、つまり世界の意識していない部分も、実際には見えている世界の重要な一部を形成している。例えば私が嗅いでいる街の匂いは、遠い世界のどこかで生まれた匂いとさえ無関係ではない。世界のどの一点においても、そこから最も遠い一点が微小に表象されているのである。ジャームッシュは『パターソン』でこのことを描いた。作中で登場人物に起こる出来事の一つ一つは、映像作品がしばしばテーマとする世界の危機や巨悪との戦いといった壮大なテーマに比べれば、あまりに些細なものだ。しかしそれらの出来事は、本人が気に留めると留めないとにかかわらず、彼らのその後の行動や考えに対し、それぞれの仕方で確かに影響を及ぼしている。こうして様々な出来事が極めて複雑に絡み合う中で、登場人物たちは"まれに"出会う。だからこそ、彼らは会うたびごとに違った顔を見せるのである。

したがって、自分が見えた部分であれ見えていない部分であれ、世界の比類なき一点に注目して、そこで起きたこと、起きていることを記録することには大きな価値がある。なんと言っても、すべては繋がっているのだ。史学が他の学問にない価値を持つのは、それが世界の唯一性を一歩ずつ解明する作業であるからに他ならない。史学は、過去に起きた複数の出来事に類似する構造を指摘し、未来に役立てるような学問のことを指すのではない。それはひたむきに具体的世界と向き合い、それぞれの点における個別にして唯一の神秘を明らかにする、信仰のような試みなのである。