道徳

「ある価値観から見て「不道徳な、くだらない、取るに足らない」候補が出てくることこそ普通選挙の意義というやつなので、そこを攻撃するのは筋が悪い」というツイートを見た。

 

筋が悪いとはどういう意味だろうか。相手の不道徳を非難して支持者を得られるならその人は間違いなく勝っている。相手の根っこを掘り崩すような真似ができないから対等に闘わざるを得ないことが民主主義の意義ではないのか。道徳を相対化した気になって「筋が悪い」と言う人の「悪い」はいったいどこに根差しているのか。

 

 

性と音楽

アンサンブルというのは、ある意味で性のあり方ではないかと思うことがある。というのも、人間が生まれたときに、生物的に男か女かどちらかとして生まれてくるように、アンサンブルをする際には、それぞれの楽器の特性と不可分な演奏者として生まれ直す必要があるからである。そして演奏の際には常にそれぞれの楽器の「性」の範疇で他と交わることになる。

男は男に憧れることは、ドラマーがドラマーに憧れるのと同じである。ドラマーにしかない(技術的かつ音楽的な)魅力を見出すように、男にしか見出しえない魅力に惹かれる(そんなものが実際にあるのかは知らない)。ドラマーがピアニストに感じる魅力は、ドラムではなく音楽そのものに属する。男が女に感じる魅力は、性別ではなく人間性そのものに属する(これは当然男にも感じうる魅力である)。まあ、このような区別は、音楽そのものの魅力とドラムの音楽における魅力の区別の困難さや、人間性の魅力と性別特有の魅力の区別の困難さを考えれば、大した話ではない。どちらも、音もしくは性別が違うだけで、根本的な音楽へのアプローチや人間性は同じともいえる。

アンサンブルと性行為はどうだろうか。ドラマーはドラマーに憧れるものだが、そのドラマーと共演することは基本的にない。よしんばツインドラムとして共演したところで、両者の役割は異なってくる。まったく同じ役割を担う二者は必要ない。これは他の楽器についても同じことがいえる。

男はどれほど男に憧れても、性行為を行う相手は女である。よしんば男同士で行為をしたとして、タチ、ネコという役割の区別が生じることになる。

つまり、どちらも同じ役割を持つ二者が同じ場に存在することがない。性行為もアンサンブルも、それが生まれた時点で決定している。このような構造がいびつだと日頃からなんとなく思っていた。同性に魅力を感じるということは、生まれたときに与えられる性とどのような関係があるのだろうか。

 

ちなみに、アンサンブルは実際の性行為よりも多様なあり方が可能である。ジャズの場合、特にピアノやベースは、フロント楽器やドラムの有無でその役割が大きく変わるともいえる。ドラムやフロント楽器にも、前の二つほどではないにせよ同じことがいえ、人間の異性愛、同性愛よりも柔軟な交わりができる。

 

 

 

 

自然

自然の愛と怖さはまったく同じであるように思えるのはなぜなのか?

ふとした瞬間に自然を感じる。今聴いていたJamesのピアノやトライアングルなどがそうで、どうしようもないほどの生命力が一瞬感じられ、それが怖いのか愛おしいのかわからない。本物の自然についても同じことが起こる。いや、本物の自然は明らかに愛を向けてくることが多いが、芸術に潜む自然はそうではない。

芸術にある自然の恐怖は、意図的に盛り込むことはおそらく不可能なのだろう。それは恍惚にも近い神秘の中に、作り手の制御を超えてふと顔を出すものであるからだ。本物の自然は基本的にそのようなパワーを向けてこないが、芸術の天才はそれを感受し、あまつさえ発現させてしまうのである。だからこそ我々は自然の恐怖の面を感じられるのだと思う。

そうであるとすれば疑問になるのはやはり、なぜあるときには愛が現れ、またあるときには恐怖が現れるのか、ということになる。別に理由が必要だとも思わないが。

6/13

車椅子のおじさんが公衆トイレの洗面台のそばで英語で話していた 仕返しの話かなんかをしていて 最後はお金を渡して 彼が立つと公衆トイレの外の屋根の下にいた ものすごい雨が降っていた 屋根の下にはほかにも人がいて ガラス張りの向こうにも人がいた 誰とも話さずに隅で座っていた 折りたたみ傘は持っていたが この土砂降りのなか帰るには オーバードライブが必要だと思った 後輩がガラス戸の向こうからきて 何も言わずオーバードライブを置いて行ってくれた 外の人たちが騒ぎ出した 雨粒が大きなまん丸になって 一つ一つがすごく離れて降っていた 速くなってしまったのかと思ったが 雨だけが違っていた 傘もささずに動画を撮った みんなはいなくなっていた カメラは構えていたが 雨はやんでしまっていた 芝生が広がっていた 向こうのやや高くなっているところで茂っている木々と 雲との境い目に見えている空の青さが あまりにもきれいだったので 声を出してカメラを向けていた よく知った女の子が向こうに立っていた

宇多田ヒカル『初恋』

宇多田ヒカルの中ではこのアルバムを最もよく聴く。

このアルバムを初めて聴いたときは、ドラムにクリスデイヴが参加しているという話を聞いてのことだった。彼は現代のドラマーでは明らかに別格の存在だが、この『初恋』では100点満点の文句の付け所のない演奏をしているのみで、別段面白くはない。宇多田の歌も、同じ理由で特に惹かれる感じはしない(クリスデイヴとはまた違う「100点」という感じはするが)。

 

むしろ魅力を感じているのは、「あなた」で繰り返されるブラスや、「Good Night」のギターや、「嫉妬されるべき人生」の電子音などだ。

別に多くの役割を担っているものではないのだが、これらからそれぞれの世界が開けているような感じがする。

 

「あなた」のブラスは日も登らない朝のダブリンとくっついて離れないのだが、夕焼けのような赤い色をしている。

大人になる?

オンライン授業で自分の画面が暗いことを指摘されて「すべての光から背を向けてるので」と言ったことが頭に残っている。なんとなくカッコいい響きだが、光から背を向けているようでは、それはまだ大人とはいえないという思いがある。じゃあ本当の意味で大人になるにはどうすればいいのか。人は「本当は全部無意味なんじゃないか」と思うものだが、真に恐ろしいことは、「本当は意味しかないのだ」という事実に直面することだろう。この逃れようのない事実と真摯に向き合うとき、つまりこの事実の意味することを考え、それでも生きる力を持つとき、大人になることができる。鏡に映っている子どもを捨て去ることができるのである。そこで初めて積み上げていくことができるようになり、子どもの背中を見ることもできる。大人でありながら<子ども>になるのである。<子ども>を心から愛せるということは、<子ども>などなくても生きていけるということだろう。<子ども>を愛することは他人を愛することでもある。すべての人を憎むこととすべての人を愛することの間には、線分を円状にしたときのちょうど端と端がくっつく一点に立ち、上体をどちらに傾けるかという程度の差しかない。その0でありながら無限であるような差異を乗り越えて、憎むのではなく愛すことのできるようになることが大人になるということなんではないかと思っている。

東京

本棚が届いたので早速本を引越しさせた。かなり良い具合だ。これに入らなくなるくらいの本を手に入れているときには、この家をすでに出ているかもしれない。

 

90〜00年代の秋葉原に対する懐古的なツイートを見た。しかしなにせ世代ではないので、古き良き秋葉原を知らないし、それが今と比べてどれほど良かったのかはわからない。今の秋葉原は人通りの少ない真夜中が一番良いと思う。そこから御徒町まで歩くのが楽しい。

個人的には、秋葉原から御茶ノ水へ歩く途中の万世橋とか、その先のあたりの雰囲気がすごく好きだ。あそこにはきっと、古き良き秋葉原よりもずっと前に失われた東京の姿があったに違いないと思っている。

 

東京の姿といえば、御茶ノ水からさらに歩いた先にある神保町にも、古き良き東京が残されている。ただ、夜に歩いても秋葉原御徒町のような感じはない。東京というのは本当にデカい。ロンドンは東と西で雰囲気が異なる、というが、東京をそういう風に分類したらいくつにも分かれてしまう気がする。

これからの秋葉原にも、歴史の片鱗は残るだろうか。万世橋付近のように残る(あるいは残されている)ものがある一方で、80年代からすっかり様相の変わった渋谷を見ると、なんとも言いがたい。懐古趣味のある人間は路地裏に逃げ込むしかなくなる運命かもしれない。