天才と勇気

告白と嘘は同じものである。告白できるのは、嘘をつくからだ。人はありのままの自己を表現することはできない。まさにそうであってこそ人間だからである。(カフカ『断片』)

 

思想に値札を付けることが出来るかもしれない。値段の高い思想もあれば、安い思想もある[ブロードの思想はみんなじつに安物だ]。さて思想の代金は、なにをもって支払われるのだろうか。私の考えでは、勇気によって。(ウィトゲンシュタイン『日記』)

 

我々が問題を立てるときに必要なのは勇気だ。ひとは新たな問題を論じるとき、しばしば、既存の問題群のなかから根拠を引っ張り出してくることによってその問題の問題性を論じ、説得しようとする。しかしそのようにして取り上げられる問題は、実際には既存の問題を扱っているに過ぎない。真に新たな問題が論じられるには、どこに問題があるのか人々が理解していないような何か、人々がまさにそれに寄って立っている何かの問題性が、単にそれのみで主張されなければならないのである。

もちろん、そうすることは困難を伴う。いかなる理由も、そこには求めることができないからだ。それゆえ、新たな問題の存在を主張する人は、何が問題であるかをそもそも知らない人々に対し、とにかくそれが問題であることを言い立てることしか、究極的にはできない。したがって彼は常に、社会という既存の問題群から逸脱した存在であらざるを得ないことになる。しかし当の本人にとっては、そうすることはあくまで彼の内から切実に要請されるものであるから、既存の問題群から逸脱しつつも彼の問題について言い立てることしかできない。既存のいかなるものにも依拠せず問題に向き合い続けること。こうした態度に求められる勇気は並大抵のものではない。この勇気を持ち合わせ、既存の問題群を塗り替えてしまうような問い、尺度を持つ人間は、天才と呼ばれる。プルーストは、『失われた時を求めて』の中で「私」が心酔する音楽家と小説家について、ほとんど同じような観点から彼らの天才性について記述している。

 

ヴァントゥイユのソナタのなかでもっとも早く発見される美は、もっとも早く飽きられる美でもある。その原因もおそらく人生と共通しており、人びとがすでに知悉している美とさほど違わないからである。ところが、そのような美が遠ざかってようやくわれわれは、あまりにも斬新すぎて精神に当惑しか与えず、識別できないまま手つかずに残っていた楽節を愛するようになる。(略)ひとりの人間がすこしでも深遠な作品のなかに入り込もうとするときに必要になるこの余分な時間は――私の場合このソナタのために必要とした時間は――、一般の人が真に斬新な作品を愛するようになるまでに流れる数世紀にもわたる歳月の縮図であり、いわばその象徴なのである。(『失われた時を求めて』吉川訳、花咲く乙女たちのかげに1 、p.228)

 

天才とは、いや傑出した才能でさえ、ほかの人より優れた知的要素や社会的洗練から出てくるというより、むしろそれらを変形して移し替える能力から生まれる。(略)天才的作品を生みだすのは、(略)自分の人格に鏡のような働きをさせる能力を獲得した人たちである。そうすることでその人生がそもそも社交的にみて、いや、ある意味では知的次元でみて限りなく凡庸であったとしても、その人生を鏡に映しだすことができる。けだし天才とは、このような映しだす能力にあるのであって、映しだされた光景に内在する美点にあるのではない。(同上、p.280)

 

では、このような特性、まったく独立して新たな尺度を打ち立てるような特性は、天才のみに備わっているものなのだろうか。そうであるとすれば、当然ながらすべての人間は、こうした能力を持つ人間=天才とそうでない非天才に二分することができることになる。こうした観点に基づいてある人物が才か否かを判断することは、彼が同時代もしくは後世の大勢の人々から彼の打ち立てた尺度を発見され、評価されたか否か、という、いわば歴史の偶然に評価の基準を委ねることだろう。しかしそうであるとしても、我々は、既存の問題群とは全く異なる問題や尺度を持ちながらも、決して人々に発見されることも、ましてやそれが歴史に記録されることもなく消え去っていった「天才」が存在したことを否定することはできないのである。そしてまったく同様に、例えば『失われた時を求めて』における音楽家と小説家も、彼らの真に天才的な部分について、その価値が理解されることなく忘れ去られる可能性は大いにあったはずであり、彼らと上述の「天才」を分つものは、その他大勢の凡才が後になってその価値を偶然理解できたか否かという、極めて外在的な基準に過ぎないのである*。

 

*実際に天才と評された人々と「天才」の間に内在的な美的価値の差異を認めることが不可能なわけではない。しかしその場合であっても、前者が後者より優れており、大勢の人々からの称賛を受けるに値したと言えるための指標は、既存の指標か、あるいは天才がすでに塗り替えてしまった、つまりその天才自身が「鏡」として振る舞う指標でしかあり得ないのである。

 

このように考えてみると、天才が持ち合わせている勇気とは、実は何かを言うこと、ないし主張することそのものが必然的に伴う苦しさに伴い要請されるものということが明らかになってくる。何を言うのにも究極的にはそれのみで主張されているのであって、自らの言葉を支え、保護してくれるような、安らぎとなる何かなど存在しない。そしてこのことは、世間一般で言うところの天才に限ったことではなく、誰にとっても同じことなのである。誰が発する言葉であっても、そこには常に逸脱の可能性が付きまとう*。この意味で我々は、常に何らかの新たな問題提起の場に直面しているのである。

 

*そのため社会や既存の問題群という存在も、詰まるところ、我々一人一人が持つ尺度が一致していることから偶然そのようなものが成立しているように見えるに過ぎないと考えることもできる。

 

小林秀雄は「モオツァルト」において、天才的精神は容易なことを嫌うがゆえに、制約や障碍のないところに自ら進んで困難を発明し、これを乗り越えようとするものだと述べた。私はこの考え方に与しない。世間で天才と評価されている人物であれそうでない者であれ、難問に直面する者は、彼自身にとっても困難が存在しないところにストイックに難問を見出すわけではなく、芸術の創出や日常的な発話に際して、実際に難問に直面して”しまう”のである。

 

単にそれのみで主張するということは、それが他の何によっても正しいと根拠づけることができないことを理解したうえで、それでもそうなのだと主張することである。だから、そうする者は、同時にそれがまったくもって正しくないのだと主張することも可能でなくてはならない。つまり何かを言うことができるためには、その言葉が嘘であり得ることもまた了解している必要があるのだ。そうであってこそ、人間はまさに人間たり得るのである。

否定(3)

 シュミットと三木の思想には、多くの共通点を見出すことができる。一方で我々は、両者の間に決定的な差異が存在していることもまた確認することになる。

 まず両者は、敵の規定を思想の根底に置いているという点で共通している。シュミットの狙いは言うまでもなく、具体的な対立状況において、敵を、その存在そのものを否定し得る対象として見据えることであった。他方で三木にとっても、歴史的な断絶の意識が過去ないし未来の時間区分とそこにおいてある他なる思想に対し敵対することが、思想の生成のための不可欠な要素であった。現実における対立の状況に注目しつつ議論を展開したという点で、三木とシュミットの姿勢は一致する。

 またこうした敵の規定を軸に据えつつも、両者の思想の背後には、その規定があくまで相対的なものであるという真理に対する了解が存在する。ある位置から敵を規定することができるということは、他の位置から、そのある位置を敵と規定することもまた可能ということである。ある位置が依って立つ具体的な敵の規定は、多のうちの一に過ぎず、何ら特殊なものではないのである。このことはまた、主体がその内に複数の敵の規定可能性を持ち、それゆえ複数の位置を占めることも可能であることを含意する。

 両者の思想に見出されたこれら二つの性質は、「政治的なもの」の本質を構成する。事実、『政治的なものの概念』でこれらの性質は、自由主義・普遍主義的な絶対否定性を批判するものとして、表裏一体の形で語られた。したがって「政治的なもの」と絶対否定性は、本来相容れないものと考えられる。しかしながら三木においては、両者は矛盾しながらも両立していなければならないとされた。このことをどのように解すべきであろうか。

 三木が言うところの思想とは性格的なものであった。倫理的・政治的判断を意味する思想の性格は、『哲学入門』においては「道徳的真理」や「世界における真理」と言い換えられる。これに対置されるのが、「世界についての真理」すなわち理論である。かかる真理は「それ自体においてあるものの真理であり、人間から認識されると否とに拘らずそれ自身において存在する。」対して、道徳的真理は「人と人との間に起るものであり、従つて起らないこともあり得る」ために、「命令或ひは当為(ゾルレン)の形をとる*。」

 

* 同じ箇所で三木は、「しかし世界についての真理も世界における真理の問題と見られるとき我々に対して命令の意味をもつてくる」と述べている。ここには「危機意識の哲学的解明」でも見られた、理論が有する性格的要素についての見解が引き継がれている。こうした彼の認識は、『技術哲学』のアリストテレス解釈において実践(Praxis)を観想・理論(Theoria)と見做す態度とも一致する。一方でかかる見方に対しては、例えば安藤孝行による、実践とはそれ以外の仕方においてあることのできるような、道徳的生活を意味するものであり、これに対し見ることや考えることといった自足した観想的活動はそれ以外の仕方においてあることはないのであるから、両者を同一視することは理に適っていないとの批判がある。しかし「真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ」と述べられるように、少なくとも実践と観想の結合は、三木にとって彼自身とアリストテレスの重要な結節点であったと考えられる。思想において主体と客体が矛盾しながら両立していることが、真理を他様たり得るものにしていると解すこともできよう。

 

 ここで三木が注目しているのは、道徳的真理が取らなければならないレトリック的な戦略である。繰り返すように、彼の着眼は主体的な断絶の意識と、客体的存在との間に厳然と存在する溝にあった。この矛盾を内に含みながら、思想が他者ないし世界に対して働きかける実践的な役割を果たすためには、それが何ら普遍的絶対的でなく他様であり得ることを了解した上で、それでも普遍的であるかのように、つまり対立する思想など存在しないかのように打ち出されなければならない。それは主体的に把捉された事実を客体的存在に落とし込むために行われる運動である。そのため道徳的真理は、「~せよ」や「~べきである」といった命令や当為の形を取ることで、他者や世界に対し変容を促す。つまり、主体的事実と客体的存在は、互いに相容れないまま一つの思想の中に併存しているというまさにそのことによって、思想に実践的意味を持たせるのである*。

 

* 思想が実践的意義を有するためには、つまり有意味であるためには、その客体的側面は言明されてはならない。なぜなら、主体性と客体性を同一の言明の内に認めることは「(実際には)○○する必要はないが、○○すべきだ」と発話することに等しいのであり、それを主張する(behaupten)ことはそもそも不可能だからである。

 

 それでは我々は、シュミットが自由主義に対して持ったイメージのごとく、敵の存在を隠蔽し、一方的に蹂躙するという暴力的な世界に生きることを余儀なくされているのであろうか。そうであるとすれば、例えばある概念や規範が以前より多くの人に用いられ、また真理として承認されているという事態は、単により多くの人が強いられてしぶしぶそうしているに過ぎないと説明されることになろう。そして ”真に” ある概念や規範をより多くの人が承認するようになるか否かは、我々のあずかり知らぬところで決定されていると主張するほかなくなるであろう。三木によれば、そのように考えることは必ずしも正しくない。なぜなら、道徳的真理があくまで「人と人との間に起るもの」である以上、それは敵に対しても単に服従を強制するわけではないからである。

 

道徳的真理は人間の真理であるといつても、「人間」といふものの一般的本質が問題であるのではない。それは私がそれに従つて他のものに対する態度を作るべき人間一般の真の像といふが如きものでもない。道徳においては私自身の真理が問はれてゐるのである。(三木『哲学入門』)

 

もし何らかの崇高な理念や規範が目の前に提示されたとして、私がそれに従わなければならないのはなぜか。単に服従を強いる格率的な倫理*は、この問いに対する解を持たない。対して道徳的真理は、強制するのではなく、真実性をもって主体に呼び掛ける。それによって初めて主体は、道徳的真理に従うことを信念をもって決断することができるのである。このとき、呼び掛けた者と呼び掛けられた者との間に、新たに真理が生起する。「外から喚び起されることが内から喚び起されることであり、内から喚び起されることが外から喚び起されることであるところに、道徳がある」と言われるのは、このような呼び掛けと決断の表裏一体の関係を表しているのである**。

 

* この表現は、「倫理と人間」より借用している。同論文では、没人格的な社会的要求から生じる抽象的一般的な格率的倫理に対して、模範となる具体的人間が我々に呼び掛けることで生じる人間的倫理の重要性が強調される。命令と呼び掛けが明確に区別されていることなど、『哲学入門』との相違点が指摘できるが、ここに道徳的真理のもととなるアイデアを見て取ることができる。

** 呼び掛けが呼び掛けたり得るのは、道徳が単に現実に存在する他者との間にのみ成立するものではないからである。もしそうであれば、呼び掛けは単なる強制と区別することが困難になろう。呼び掛けの意義は、呼び掛ける者も呼び掛けられる者も、自らに対して呼び掛けるプロセスを必要とするところにある。「『汝為すべし』といふ道徳的命令は、私が私自身に対して汝と呼び掛けるのであり、そこに道徳の自律性がある。」自己が私であると同時に汝でもあり得るところに、道徳の客観性も生じてくる。つまり他者に対する命令や他者からの命令は、同時に自己の自己に対する命令を含意するのである。「批評は根本において自己批評でなくてはならぬ」という言葉も、この文脈のもと解せられる。とはいえ、かかる説明は「何ゆえ私が?」という根本的な問いに十分に答えているわけではない。それは我々に言語が突然与えられる理由を問うことができないのと同様である。無論、倫理の場合、誰かの行為に価値を感じて意図的にそれを習得することはあり得る。しかしその場合でも、自分でそれをなすときには、それは価値があるからといった何らかの理由でなされるのではなく、ただなされるのでなければならない。この意味で、我々は言語であれ倫理であれ、それらの「規則に盲目的に従う」(folge der Regel blind)。ここに「信」を有する主体の個別にして唯一の性格が顕わになるのである。

 

 以上を通じて三木が明らかにしたのは、「政治的なもの」における死闘の闘われ方である。「政治的なもの」はあくまで対立の強度を表すものであって、具体的な対立の内容には踏み込まない。しかし、対立そのものが骨格としての「政治的なもの」のみならず、血肉としての諸領域からも構成される以上、そもそも対立発生の契機が何であるかという点を無視することはできない。そしてそれは、危機意識から生じる思想に他ならない。したがって決断は、思想的確信を伴うことによって初めてなされ得るのである。我々が語を用いる際にも、危機意識がなす上述のようなレトリックは常についてまわる。闘争とは、対立相手に対する認識的優位を打ち出すことで、つまり自らの側こそが真理であり、それゆえ普遍的であると主張することで闘われるものなのである。そのために思想は、主体と客体の対立を内に含みながら、当為や命令の形を取って世界に呼び掛ける。そうすることで、敵さえもその真理の内に包摂し、敵対関係そのものを否定するのである。

 

 三木とシュミットの差異はいかなる点に見出されたか。両者はともに、敵の規定と、それに伴う自己否定性に注目した。そしてシュミットは、自己否定性と真っ向から対立する絶対否定性を批判した。しかしながら三木は、むしろこれらが矛盾しつつも併存している状況こそが対立の本質であると洞察したのであった。それはシュミットが問題としなかった、友-敵の対立における真理性・正しさをめぐる死闘のあり方を浮き彫りにするものと言えるであろう。

 このようにして三木の位置から照射された「政治的なもの」の枠組みは、自由主義に徹底して対立する姿勢を取ったシュミットの理論をも、友-敵の区別によって捉えることができる。シュミットは自らを「政治現象の観察者」と称し、彼の洞察が自由主義的観点から不道徳とかキニク主義であるとの批判を受けたとしても、一貫して自分の政治的思考、すなわち友-敵関係に対する視座を固守することによって、それをただ具体的に闘争する者の政治的手段として認識することができると述べる。ここで彼は、自らの「政治的なもの」の枠組みによって自由主義の欺瞞を暴露し、その真理性・正しさを主張しているのである。一方で、かかる認識の根底には、自己否定性が存在する。すなわちそれは、自由主義の側から提示される真理性・正しさによって打ち崩される可能性を孕んでいるのである。いわば「政治的なもの」とは、マイアーが「プラス-マイナスが逆になった自由主義」と表現したように、自由主義とその真理性・正しさをめぐって対立する友-敵関係の中に置かれているのである。

 かかる三木の洞察を、日本主義の勃興という背景を抜きにして語ることは、三木が当時感じていたはずの危機の切迫性を薄めることにしか繫がらないであろう。彼の位置において生じた断絶の意識によって、すなわち日本主義に対する絶対否定性によってこそ、その思想は実践的なものへと昇華したのである。

 シュミットが自由主義を批判したように、三木も、一方的に正当性を押し付けるイデオロギーのあり方に批判的であった。しかし三木は、シュミットとは異なり、端的に敵を否定するような態度にも賛同することができなかった。この点に関して自由主義と「政治的なもの」は、彼にとって同じ穴の狢であったと言えよう。羽仁五郎に宛てた書簡では、以下のように綴っている。

 

私はもともと “Stellungnahme〔注:態度決定〕” と云ふことが嫌ひである。それは多くの場合、あらゆる人間を「敵と味方」の二つに分つやうな、窮屈さと無理さとをもつてをる。それと同時にStellunghahmeほど容易なことはない。Stellungnahmeをするためには相手の考を十分に理解する必要はなく、ただそれをひとつのSchema〔注:型〕に押込みさへすればいいのである。(三木「書簡」)

 

 しかしながら三木は、我々が何等の対立もなくわかりあえるというような、楽観的な世界観を信奉したわけでもなかった。思想が真理性・正しさを獲得し、実践的意味を有するためには、絶対否定性と自己否定性の矛盾が生むレトリックが不可欠であることを、彼は深く理解していたのである。それは例えばライプニッツが示したような、「耕されていないところ、不毛なところ、生命のないところ」が一つもなく、混乱や混沌は見かけ上のものに過ぎないといった、美麗で完全な宇宙像とは相容れない。人間が全体を創造する視点に立つことができない有限な存在である以上、否定や対立は常に我々の前に立ち現れる。生きるとはつまるところ、死闘に身を置きながら、我々が歴史において占める位置から真理であるところのものを示すことなのだ。そして他ならぬ三木自身が、かようにアンビバレントな政治的生を生き、日本主義との対峙を通じて自らの思想を成熟させていったのである。

否定(2)

 三木清は、西田幾多郎に師事し、いわゆる京都学派を構成した哲学者として知られている。彼はドイツでハイデガーの薫陶を受け、パスカル人間学唯物史観の再解釈をもって日本思想界の寵児となるも、1930年(昭和5年)に日本共産党への資金援助の嫌疑で検挙されたことをきっかけに、公式には法政大学教授の職を退くことになる。その後は、文筆が活動の中心となっていった。

 これと重なる1930年代という時代は、日本と国際社会の軋轢が徐々に肥大化してゆく時期であった。満州事変を契機として国際世論が次第に硬化するのに伴い、日本は1933年(昭和8年)に国際連盟脱退を通告する。その後、孤立はさらに深まり、1937年(昭和12年)には日中戦争支那事変)へ突入する。こうした対外的な孤立が、農村の窮乏といった国内問題と共鳴することで、国内における国粋主義的な機運を高めていった。その一つの帰結が、日本主義と呼ばれる思想の隆盛である。

 三木が生きた時代には、上述のような国内外の不安定さがあった。彼を取り巻くかかる環境が、その目に危機として映ったことは想像に難くない。そして、日本が当時抱えていた様々な問題の中でとりわけ彼の関心を引いたのが、時局と背中合わせに勢いを増す日本主義であった。彼は自らの哲学的思索を基礎とし、日本主義の流行という思想的潮流に対し疑義を投げかけたのである。こうした問題意識を携え、三木は1938年(昭和13年)から近衛文麿のブレーントラスト、昭和研究会に文化委員会の委員長として参加し、日本主義という現実に迫る危機に加え、自由主義共産主義全体主義といった種々の思想の問題を克服する思想原理として「協同主義」を提唱したのである。日本主義の克服という問題意識は、三木の文筆活動期を貫くものであった。

 

 三木は日本主義のいかなる点を問題と考えていたのであろうか。

 何よりもまず挙げることができるのは、そのファシズム的性格であろう。1936年に書かれた「時局と思想の動向」において三木は、日本主義とは「日本ファッシズム」と言うべきものであり、西洋的なものを排し、日本の伝統に回帰することを唱える復古主義の思想を指すとしている。彼は日本主義の国粋主義的傾向を、一足先にファシズムが社会を席巻していたドイツやイタリアにおける思想状況と重ねて捉えていた。ファシズムは、資本主義反対を標榜して出発し、自国や自民族の特殊性を強調した思想である。それは各々の国内社会の行き詰まりに伴い支持されるようになったものであった。同様に当時の日本にも、先述のような社会の行き詰まりが存在した。日本主義は、この窮状を利用して「西洋物質文明の弊害」たる資本主義の排撃を唱えたのであった。したがって日本主義は、その本質と成立過程のいずれにおいてもファシズムと相違ないものと結論付けられることになる。

 また三木は、ファシズムには本質的に非合理性・自己矛盾が内在しているとも言う。ファシズムは国家の合理化を促進するものであるが、その「合理化」とはとどのつまり、「封建的非合理的なものを取り除くことによつてファッシズムを資本主義の現在の段階に一層よく適合したイデオロギーたらしめる」運動であった。すなわちファシズムは、そもそも資本主義に対するアンチテーゼとして生じたにもかかわらず、実際には資本主義がその行き詰まりに伴って要請した思想であり、それゆえその「合理化」の過程は資本主義の「合理化」の一形態に過ぎないのである。

 

 以上のような日本主義のファシズム的性格、そしてその非合理性についての見解は、三木の日本主義理解において大きな位置を占める。実際、三木を扱った従来の論考においては、多くの場合、彼の日本主義に対する問題関心はそのファシズム的ないし右翼的性格にあることが前提とされていたように思われる。しかしながら、三木の日本主義理解は、上述のような点のみに留まらない。三木が日本主義を批判するとき、彼はそこに、日本主義に特有の問題を読み込んでいるのである。

 日本主義が ”日本本来” の伝統に回帰する復古主義を唱えるとき、それはドイツやイタリアにおけるそれとは異なり、単なる資本主義批判に留まらず、近代において流入してきた西洋の知識や文化全般の否定を意味することになる。そのため、日本主義が資本主義を攻撃する際にも、資本主義は「西洋物質文明」を代表するものと見做され攻撃される。そして西洋を克服するものとして、日本の伝統の優位が説かれるのである。ここで三木が想定する日本主義者には、例えば『日本主義の哲学』(1929年)を著した松永材がいる。彼は西欧世界において論じられてきた様々な主義の真理が相対的なものに過ぎず、したがって西欧諸国が対立と合流という循環運動を繰り返してきたとした上で、以下のように述べる。

 

弁証的循環論を書いたヘーゲルの哲学も自ら最後の最終の哲学であることを自認し、彼の歴史哲学もゲルマニ文化(現在の西欧文明)をもつて歴史の終焉と看做してをる。〔…〕こゝにおいて吾等はヘーゲルがこの循環的自滅を免れようとして、カントが烈しく戒めてゐるにも拘はらず、飛躍的に絶対精神の世界に飛び込み、こゝに慰安を求めようとした動機を理解することが出来る。〔…〕更に吾等はヘーゲルの歴史哲学に少しも含まれてゐない日本歴史の内にヘーゲルが求めた絶対性が実在することを悟り、その為めに日本主義のみが循環的主義戦を超克することが出来ることをも知るやうになるのである。(松永『日本主義概論』)

 

 松永は、西欧において挫折してきた超越主義による対立の克服が、日本主義によっては可能であると主張する。しかしながら、かかる日本主義の潮流を方向付けているのは、まさに西洋から借用されたファシズムの思想なのである。日本主義がファシズムに依拠する以上、日本はドイツやイタリアの「合理化」の過程を後追いすることになり、日本的伝統への回帰とは真逆の方向へ突き進むほかない。この矛盾した日本主義のあり方を指摘して三木は、「日本主義は単なる復古主義であることを許されない。特に今日、一部の日本主義者が日本文化の独自性を主張しながら他方ドイツ模倣の傾向を顕著に有することは甚だ遺憾であると云わねばならぬ」と批判する。

 さて、ここで指摘されている日本主義の矛盾それ自体は、あくまでファシズムの非合理性の延長線上に位置づけられるものであろう。しかし三木は、かかる矛盾の根本的な原因が、日本主義やファシズム自体の内にあると考えたわけではなかった。そうではなく、その時々の時流に合わせて欧米で流行りの思想を取り入れ、都度立場を変えるような、信念を欠いた思想の受容の仕方こそが、真に問題とされるべきと考えたのである。

 

日本主義のナチス全体主義への思想的依存が清算されたとき初めて、我々も喜んで日本主義について語るであらう*。マルクス主義が流行すればそれが全体の真理であるかのやうに考へ、全体主義が流行すればそれが全体の真理であるかのやうに考へ、かくして次から次へ転向してゆく無責任な思想的態度には何等の自主性もなく、如何なる新文化もそこから生れることができぬ。(三木「世界の危機と日本の立場」)

 

* 「我々も喜んで日本主義について語るであらう」との記述は、三木が民族の特殊性に一定の意義を見出していたことをよく表している。「どのやうな世界的意義を有する事柄も、抽象的に普遍的に実現されるものでなく、却つてつねに一定の民族において最初に実現されるといふ意味において、言い換へれば、どのやうな世界史的な出来事もつねに一定の民族の行動として開始されるといふ意味において、民族主義には正しい見方が含まれてゐるのである。」普遍性を有するものの根底には必ず特殊性が存在するという認識のもと、三木は民族主義個人主義の重要性を説いた。ちなみに引用ではファシズムではなく全体主義と述べられているが、三木はファシズム全体主義の論理に依拠しているとの認識を持っていたことを付記しておきたい。

 

三木の着眼は、日本主義が唱えるような日本独自の思想への回帰や、あるいは「近代の超克」で主題とされたような、西洋文化の克服といったスローガンとは明確に異なる。彼はあくまで、西洋の思想を受け入れるだけ受け入れ、単に復唱するだけの「受け売り」的な態度を問題としていた。そのような確信を欠いた浅薄な受容こそが、日本主義の矛盾の根源であると洞察したのである。

 

だからまた私は日本主義の哲学者に対して、その多くが日本主義を基礎付けるにあたり、理論的根拠を何等かの西洋哲学に、或いはヘーゲル、或いはシュパンやカール・シュミット、或いは新カント主義にさへ仰いでゐるといふ事実を強ひて非難しようとは思はない。寧ろ私はそれらの人々がそのやうな西洋の哲学の理解において日本主義者以外の人々に比してかなり粗末であるといふことを遺憾に思ふ。(三木「最近の哲学的問題」)

 

そして、この受け売り性をめぐる三木の批判は、後述する彼の思想と深く結びついているのである*。

 

* 日本主義者がシュミットの理論を援用していたことを窺わせる記述は注目に値する。ここでは日本主義者のシュミット受容について詳述できないが、三木が日本主義者の代表例として挙げる鹿子木員信は、1915年(大正4年)の著作『永遠之戦』においてすでに「此の世に平和は無い。此処にあるものとては、唯だ『永遠の戦』と、その仮の姿に他ならぬ『征服』と『勝利』と『対陣』と『対抗』あるのみである」との見方を示している。なるほどかかる見方は一見すると友-敵の対立関係を基調とするシュミットの理論と類似しているようにも思われ、鹿子木がシュミットの議論に共感を覚えたであろうことも想像がつく。しかし、シュミットがあくまで闘争の現実的可能性の存在に着目したのに対し、鹿子木は上の引用に続けて、実際に国家が戦争に訴え続けることを、またそれによって「人類を鍛え」ることを主張したという点で、両者の態度は大きく異なる。片山杜秀は「『超国家主義』素描」において、こうした鹿子木の思想を、「不断の闘争を純粋化した無窮動的世界」を希求する「超国家主義」の一つの極限の典型例であるとし、カトリックの終末意識と不可分であったシュミットの思想とは対照的なオプティミズムが見られることを指摘する。

 

 受け売り的な日本主義に対する三木の評価は、先の引用にある「無責任な思想態度」という表現に集約されている。こうした評価は、1932年に執筆された「危機意識の哲学的解明」の中にすでに見出すことができる。この論文は、表題が示すように「危機」について論究したものであり、後に展開されてゆく彼の思想的態度全体の背骨を形成するものと位置づけられる。

 三木によれば、「思想の危機の時代」とは「思想」が「その価値においてよりもその性格において問題にされる」時代を意味し、また「この時代ほど無性格な思想の横行する時代もない。」ここでいう性格とは、思想の真偽を意味する「価値」と区別され、思想の善悪、穏健危険、進歩的反動的などを意味する倫理的、政治的概念である。したがって無性格な思想とは、倫理的、政治的判断を欠いた思想ということになる。そしてそれは、「主体的真実性のない思想」という表現に置き換えられる。この主体的真実性(Wahrhaftigkeit)は、客体的な意味における真理性(Wahrheit)に対置され、後者が「或ることを正しく知るといふこと」を意味する一方で、前者は「それがほんとに分るといふこと」を意味する。したがって、さしあたり三木の言う無性格な思想は、仮に価値の見地から真であると言い得るとしても、自らの信念としてそれを提示することができないような、確信を欠いた思想を指すと解すことができる。主体的真実性を欠いた思想は、「その心理的効果によつて他人を面白がらせ、景気附け、饒舌にする」ことはあっても、「彼等を実践に駆り、或ひは彼等において彼等自身の思想の生産を促すことはできない。」

 両者の区別はさらに、理論と思想という概念にそれぞれ置き換えられる。理論とはすなわち存在的真理に関わる学であり、したがって自然科学は高い程度において理論的であるとされる一方で、思想は存在論的真理に関わる学であり、哲学などはより思想的なものと見做される。しかし同時に、いかなる理論も思想的・性格的な要素を含む。これは理論の主体的制約によるものである。また逆に、思想も「存在的認識に媒介されて客観的になることを要求されて」おり、単に主観的なものに留まるわけではない。ところが危機の時代においては、これらの真理、つまり価値が軽視され、性格の側面のみによって思想や理論の優劣が決定されるようになるのである。

 以上の認識を前提に、三木は「ソフィスト」に対し痛烈な批判を加える。危機の時代におけるソフィストは「或る思想について客観的に真であるか否かを吟味することなく、ただその性格をのみ論議する」のであり、彼らにとっては「存在的真理も存在論的真理も共に何等根本的に問題にならない。」そして、自己の無性格な思想を顧みず、他人の思想の性格のみを問題とする。かかるソフィスト像は、受け売りの思想を振りかざしながらも、むやみに西洋の不完全性を説き、自らの立場を称揚する日本主義者という三木の評価と重なるものと言えよう。

 以上で危機の時代の性質が概ね確認された。それでは、危機の時代とはどのような時代を指すのだろうか。三木は思想の源泉としての危機意識の特性を、「存在と事実との矛盾」に求める。危機は「非連続の絶対性」を除いては考えられず、この絶対性は事実的に、すなわち主体的にのみ捉えられる。単に存在的に、すなわち客体的・相対的に見れば、危機的時期は単なる過渡期に過ぎない。そこに生じる矛盾は反対ないし差異として、並列的に捉えられるに留まる。こうした事実と存在との矛盾、主体と客体の矛盾の状況こそが危機として措定される。

 危機における「非連続の絶対性」は、1941年に執筆された「東亜新秩序の歴史哲学的考察」では「歴史的な断絶の意識」と表現される。危機が客体的には単なる過渡期であるということは、裏を返せば、歴史におけるいかなる瞬間も危機であり得ることを意味する。どのような時代でも、自分の生きている時代は最も悪いとか危険な時代であるという意識が、多かれ少なかれ存在するのである。この終末観的とも言うべき意識は、現在を起点に過去と未来とを断絶させる。そして、このいずれかの時間区分を、現在を含める形で否定するものとして思想が生成する。例えば革新主義は現在と連続するものとして過去を、逆に伝統主義は現在と連続するものとして未来を否定することで生じる。これらの思想は、否定対象の時間区分に寄って立つ思想を絶対的に否定するものとして、すなわち一切の価値を認めないものとして生じてくるのである*。

 

今日自由主義とか個人主義とかゞ絶対的に否定さるべきものと考へられてゐるのも危機の意識から出たものである。その場合自由主義には善い面もあると共に悪い面もあるなどと考へられるのではない。それは絶対的に否定さるべきものと考へられるのである。(三木「東亜新秩序の歴史哲学的考察」)

 

* ちなみに「危機意識の哲学的解明」においては、「現在が絶対的な意味を有するときはじめて危機も考へられる」と言われる。およそ8年半の時を経て新たに過去と未来の区分が設けられたものの、現在の否定という要点は変化していないことに注目すべきであろう。

 

 この絶対否定の作用を前にしては、敵対関係はもはや友-敵のような対等な対立ではあり得ない。友-敵の対立が成立するためには、現実の政治的対立のように、どちらか一方の主張が正しいと一概には決められないような闘争的状況が成立していなければならない。しかし絶対否定においては、否定する側である当の意識が初めから絶対的なもの、自明なものとして措定されているのであるから、否定の対象には一切の正当性が認められてはならないのである。

 かかる歴史的な断絶の意識は、主体的にのみ把握される。すなわち、この意識が生じるときには、必ず「ほんとに分る」ことを伴う。それは敵対する他なる思想に対する絶対否定性を有する。この意識は、歴史においてそれが生じる瞬間の一点は他のどの位置と比べても何ら特別ではない、全く並列的な価値を持つものであるという客体的な真理と真っ向から対立する。かかる真理はまさに、主体的な絶対否定の作用が隠蔽するものだからである。この対立状況・矛盾から生じるのが危機意識であり、思想は危機意識を基礎とすることで、真に実践的なものへと昇華するのである。

 危機意識は客体的に見れば、何等の絶対性も持たない。したがってある位置における思想は、客体的な意味では、絶対否定の対象である他なる位置における思想と相対的・並列的な関係にある。すなわち思想には、歴史における非連続性とともに連続性が認められなくてはならないのである。三木はこれを、ルネッサンスを例にとって説明する。ルネッサンスとはつまるところ、ヒューマニズムのない中世を克服し古代のヒューマニズムを復興する運動であるから、「中世を絶対に否定して古代を絶対的に肯定した」ものと解すことができる。しかし、ジルソンが指摘したように、ヒューマニズムの要素は古代から中世へ受け継がれていた。このことはトマスら中世の哲学者たちがアリストテレスを単に「哲学者」と呼び、膨大な注釈を付したことからも容易に想像がつくであろう。このような断絶の意識と対立する連続性は、思想を構成する不可欠の一側面なのである。

 歴史における他の位置とは、つまるところ他者が占める位置である。したがって、危機意識において主体と客体が相対立しながらも両立しているということは、一面には他者性の了解を意味する。そのとき危機意識は、単に他なる位置に依拠する思想があることを了解するのではない。それは同時に、そうした思想もまた絶対否定性をもって、こちらを否定してくるであろうことをも了解しているのである。このことは「解釈学と修辞学」と題された論文において端的に示されている*。

 

語る者に対して聴く者は単に聴くのみでなく、みづからも語り得る者、即ち独立のものでなければならない。汝とはただ聴く者でなく同時にまた自身語り得る者のことである。聴く者が同時に語り得る者であるといふことは、彼が語る者に対して否定の可能性を有する者であるといふことを意味している。かくの如き汝に対してのみ私は真に私であり、従つて語る者は単に語るのみでなくまた聴き得る者であり、かくしてまた自己否定の可能性を有する者でなければならない。(三木「解釈学と修辞学」)

 

* かかる見方は『純粋理性批判』における理性の論争的性格に関するカントの洞察と類似している。すなわち、「理性はそのすべての企てにおいて批判に服さなければならず、いかなる禁令も批判の自由を制限することはできない。」(B 766)

 

 他の位置における思想の存在を客体的に認めることは、自己の思想が絶対的に否定される可能性を承認することである。この意味で危機意識には、絶対否定性と同時に自己否定性とも言うべき性質が内在している。そして自己否定性は、絶対否定性と相対立しながら、つまり矛盾しながら両立することで、「政治的なもの」において矛盾なく端的に示される自己否定性よりも一層その性質が先鋭に現れるのである。

否定(1)

 

  ウルシャナビよ、この草は危機〔をこえるため〕の草だ。

  それによって、人は生命を得る。

                       『ギルガメシュ叙事詩』月本昭男訳 

 

  神はまた人の心に永遠を思ふの思念を賦け給へり

                                 『伝道之書』 

 

 我々は通常、多かれ少なかれ何らかの危機に直面している。それはごく日常的な悩み事かもしれないし、あるいは人間に定められた死の運命かもしれない。これら様々な危機に共通するのは、何事か、ないし何物かに対する否定の性質を有することだろう。例えばギルガメシュにとって死という運命が危機と思われたのは、それが否定すべき対象として彼の前に現れたからである。危機の源泉である否定の性質は、人間の言語的思考の中にのみ認められる。我々に課せられた苦難や問題は、自らが引き受けるべき役割や取るべき立ち位置を我々自身に問わせる。こうして危機的状況と向き合い、それを否定することを通じて、人間はひとまず拠り所とする”永遠”をその都度見出しながら、さらに問いを重ねてゆくのである。若返りの草は、ギルガメシュに文字通り永遠を授けるはずであったが、その希望は蛇に草を奪われることであっけなく崩れ去る。真の意味で永遠がもたらされることなどないという真理が、彼に襲い掛かるのである。しかし、かかる冷徹な真理と危機の意識との間で彼が苦難の道を歩んだ、その探求の事実にこそ、彼の”永遠”は見出されるのではないか。この永遠は、思想と呼ばれる。

 人類が二つの大戦を経験した20世紀の前半は、とりわけ否定や対立が様々な形として現れた時代であったと言えよう。哲学者三木清と国法学者カール・シュミットは、かかる人間的な時代に置かれて、ともに否定に注目する政治思想を展開した。それらは日本主義と自由主義という、現実政治におけるそれぞれの”敵”に対峙するものとして打ち出された。

 二人の間には、直接的な接点があったわけではない。また、三木がシュミットの思想に影響を受けたような目立った形跡も見られない。それどころか三木は、シュミットの理論は第一次世界大戦で敗北を喫したドイツに固有の状況においてこそ意味を有するものであり、それゆえ民族主義的な主張の域を出ないとさえ考えていた。しかし、このような相対立する側面にもかかわらず、両者の思想には否定を軸とした近接性が見られる。本稿のもくろみは、三木の哲学的ないし政治思想的洞察から、シュミットの「政治的なもの」の枠組みを捉え直すことにある。両者の思想はどのような意味で類似し、また異なるのか。

 

 シュミットが教授資格を得て大学で教鞭を執るようになった戦間期は、彼にとって危機が、様々な形で迫っていた時代であった。連邦国家としての帝国を支えていた君主制原理を敗戦によって失ったドイツは、共和国として生まれ変わるも、左右の反体制派の攻撃に悩まされ、政治的混乱が続いた。このような状況においてシュミットは、君主制の終焉というドノソ・コルテスの認識を継承し、王朝的正統性から民主的正統性への転換を受け入れたうえで、国家の例外状況において顕わになる、主権者の「決断」の重要性を説いた。この問題意識は、決断の絶対性を神の超越性に類比するという『政治神学』(1922年)の成果へと結実した*。また、かかる洞察を土台として、ヨーロッパ精神史における20世紀を政治的決断の意義が極限まで矮小化された技術の時代と捉え、そこに至るまでの文明論的経緯について論じたものが「中立化と脱政治化の時代」(1929年)である。そして何より、シュミットは、第一次世界大戦での母国ドイツの敗北と、ヴェルサイユ体制における同国に対する厳しい戦争責任の追及、そして主権の制限という仕打ちを目の当たりにしていた。彼はその背後に、一方で平和や人類の進歩を謳い、国際連盟を設立しながら、他方で帝国主義的拡張によって得た権益を手放そうとしない西洋諸国の偽善を見たのである。このような西洋諸国の態度は、彼の主著『政治的なものの概念』(1932年)において痛烈に批判された。

 

* もっとも、超越的な決断の弱体化と君主制の弱体化との間に因果関係を読み込むシュミットの見解は、史実的観点からは疑問が残る。また、そもそも彼の生きたプロイセンの王家はカルヴァン派プロテスタントであり、カトリシズムに基づくシュミットの洞察が同国にそのまま適用され得るとは言い難いということにも留意する必要があろう。

 

 以上のすべての危機を貫いていたものが、自由主義であった。シュミットは少なくとも戦間期において、一貫して自由主義と対峙していたのである。しかしながらこの自由主義という思想が孕む問題は、すでに述べたように、様々な形を取って現れた。自由主義の多様な側面に共通して見られる根本的な問題とはいかなるものであろうか。この点がまず明らかにされなければならない。

 シュミットが指摘する自由主義の問題点は、二つの段階に分けることができる。一つは、ヨーロッパにおける中立化の過程の延長線上、自由主義諸国台頭のさらに先に、徹底して中立的・非政治的な技術の時代が到来したこと。もう一つは、このように技術の時代が到来した帰結として、西洋諸国が普遍的概念を独占する事態が起こったことである。

 諸領域の中立性・非政治性をめぐる問題意識は、「中立化と脱政治化の時代」の中で詳細に述べられる。シュミットによれば、ヨーロッパにおける人間生活の中心領域は、16世紀から19世紀にかけて神学→形而上学人間主義・道徳主義→経済と変遷し、20世紀には技術に完全に移行した。技術以前に中心を占めていた諸領域は、それぞれの時代において自明で中立的な基準たることを期待された。そのため、中心領域で問題が解決すれば、周縁領域の問題も附随的に解決へと導かれるはずであった。しかし実際には、中心領域では神学的論争のように対立が絶えなかった。対立は単に観念的なものには留まらず、例えば神学が中心領域の時代において「領土を支配する者が宗教を支配する」と言われたように、具体的な形を取って現れた。そこで際限のない闘争を避けるべく、新たな中立性を求めて中心領域が移り変わっていった。技術が中心領域となったのも、それが新たな中立的基準としての役割を期待され、経済に取って代わったためである。したがって、「技術一点ばりの思惟においては新たな技術的発明が経済発展をも解決するとされる。技術の進歩こそ第一の課題であり、経済問題をふくめた他のすべての問題は舞台から退く。」かくて技術は、あらゆる領域の客観的・普遍的基準として20世紀の中心領域に君臨したのである。

 しかしながら、技術には、従来の中心領域とは異なる性質があった。技術はとどのつまり単なる装置に過ぎず、それが作動するために必要な人間の決断は、技術には内在し得ない。それはあくまで「自分から動き出すことはできず、人が使ってくれるのを待っている」ことしかできないのである。このことはある意味で、16世紀以来の中立化の過程が極限に達したことを表している。なぜなら技術の時代にあっては、たとえ文化、民族、宗教、戦争、平和といったあらゆる領域で困難な問題が生じても、技術という装置に投げ込むことで自動的に客観的・普遍的な解決がもたらされることが期待されるからである。これは技術以前の中心領域では見られなかった、技術の装置としての特有の性質である。

 しかし他方で、技術はいかなる中立性も持たないとも解すことができる。というのも、諸領域が技術を利用することによって生じるのは、実際には問題の解決ではなく、隠蔽と言うべきものだからである。

 

今日なお多くの人々は技術の進歩によって人道や道徳の進歩がもたらされると期待しているが、これは技術と道徳の魔術的結合を信じ、さらに現代技術の巨大な機構はもっぱら自分たちのような考えで動かされること、即ち社会学的にいえば、自分たち自身がこの恐るべき武器の主人であって、その持てる巨大な力は我がものだと素朴に前提するものである。(シュミット「中立化と脱政治化の時代」長尾龍一訳)

 

 諸領域ないし諸集団がそれぞれ、自分こそが技術を独占していると考えるような状況は、従来の中心領域をめぐる対立とは異なる。そこでは決断や対立相手など初めから存在せず、あたかも自らの寄って立つ技術の用い方が自明であるかのような装いがなされ、また技術の使用によって自動的に導かれた一つの”解決”が、あたかも不変の真理であるかのように振る舞うことになるのである。国家を、その基礎にある政治的決断を度外視し、実定法体系と同一視したハンス・ケルゼンの純粋法学などは、その最たる例と言えよう*。

 

* なお、シュミットは『政治神学』の中で「法的推論においては微細な点まで前提から演繹されうるものではなく、独自に決定の必要な決断の要素の介入が不可避」であると述べている。ここで指摘されているような、「法の綻び」(ハート『法の概念』第7章)を埋め合わせるために必要とされる決断と、本稿で注目する政治的決断は区別されなければならない。前者は法適用の内容に関する決定であるのに対し、後者は法の適用自体についての決定であるという意味で、両者には明確な差異が存在する。

 

 シュミットはこうした技術における中立性を、19世紀ヨーロッパの自由主義国家が自らを不可知論的中立国家(stato neutrale ed agnostico)と称し、その存在理由を中立性に求めるようになったことと連続的な事象として捉えた。決断主体たる国家までもが中立化の流れに飲み込まれたことで「政治神学の一章」が完結した、その極限に技術の時代が位置づけられるのである*。技術を利用する者は、自らの中立性から逸脱する存在を自動的に、対立相手ではなく、逸脱者と見做す。こうした政治的決断の矮小化こそが、「最も恐るべき戦争が平和の名のもとで、最も恐るべき隷従が自由の名のもとで、最も恐るべき非人道が人道の名のもとで行われる」という、自由主義の倒錯した悲劇をもたらすのである**。

 

* 国家の中立化という現象がとりわけ特異的なものと見做される背景には、ドノソ・コルテスから受け継がれた自由主義に対する見解が存在する。彼は自由主義を、神の真理に基づく決断を拒む存在と捉えた。したがって自由主義は、16世紀以来の主権国家とも真っ向から対立するということになろう。かかる「十九世紀における国家中立性論」は、「過去数世紀の西洋史の特徴たる精神的中立性への一般的傾向」の帰結である。

** 彼の立場を踏まえ、シュミットは彼の時代に通底するニヒリズムを指摘し、その克服を目指したと指摘する向きも存在する。実際、このような理解は、技術が獲得した”中立性”を神学以来の中立化の過程と連続的に捉えた、カトリックであるシュミットの問題意識を精確に射貫いていると言えるであろう。一方で、これを逆転させて考えれば、技術の時代には人間がキリスト教の超越的な基準に身を委ねることをやめ、「自由なる精神」のもとに自らの生を生きるようになったという意味で、むしろニヒリズム克服の時代が到来したとも解すことができる(ニーチェ『悦ばしき知識』箴言343)。そしてこの時代にあって人間は、決断の基準を自らの内に帰属させることが可能となった。したがって「政治的なもの」も、彼の意図に反して、単なる国家学の域を超えた人間学的な意味をも持ち得ることになるのである。

 

 以上のようなシュミットの問題関心は、『政治的なものの概念』におけるそれと重なる。同書によれば、国家が決断を専有し、非政治的な社会的領域の上位に君臨する権力として存在していた時代とは異なり、20世紀においては、国家と社会とが、すなわち政治と非政治とが滲透しあっている。単に非政治的とされてきた宗教、経済、道徳といった諸領域は、すべて政治的なものに還元され得るものとなった。つまり、それらの領域に属する諸勢力がすべて政治的決断の当事者になり得ることとなり、非政治的なものに対する「『政治的なもの』に特殊な区別標識を立てることができない」時代が到来したのである。かかる事態は、すべての領域に属する勢力がアクセス可能な技術の存在を前提として初めて成り立つと言えよう。

 こうした彼の時代認識から、自由主義諸国に対する批判が導かれる。国家内のあらゆる領域に浸透する中立化・非政治化それ自体は、本質的に超国家的なものであろう。ところが、その帰結として生じたのは、「人類」「世界平和」といった普遍的概念を掲げる諸国家の連盟であった。この連盟は、言うまでもなく人類や世界と同一の存在ではないが、しかしこれらの概念を技術と結びつけることで普遍化し、占有する。言い換えれば、連盟に属する国々が「人類」の名のもとに取る行動に、自明な正当性を付与するのである。この普遍化が政治的決断と、それに必然的に付随する敵の存在を隠蔽する作用を有することは、すでに述べた通りである。西洋諸国は結局のところ、帝国主義イデオロギーとして普遍的概念を利用しようと、また逆に、対立する相手からその所有権を剥奪し、排除しようとしているに過ぎない。このような普遍主義的態度は、平和という名目を掲げて行われる「最も恐るべき戦争」に行き着くほかない。

 

「人類」という名の使用、人類〔の名〕の持出し、この語の独占、すべてこれらは、このような崇高な名はなんといってもなんらかの帰結なしには使用できぬものだから、敵に対して人間としての資格を拒み、敵を法外者、人類外者と宣言し、これによって戦争を極度に非人間的なものに仕立てあげようという恐るべき要求のみを表明しうるに留まるだろう。(シュミット『政治的なものの概念』菅野喜八郎訳)

 

 シュミットは自由主義によってもたらされた中立性・非政治性が、技術の時代とともに暴力的な普遍主義を招くことになると批判した。かかる洞察は、戦間期のドイツを生きた彼の切実な問題意識から生まれたものと言えよう*。

 

* ちなみに三木も、自由主義の問題を様々なところで指摘している。彼によれば、自由主義の問題点は個人主義的側面と世界主義的側面の二つに分けられる。まず個人主義的側面に関しては、近代主義的な個人観に依拠し、自由をアトムのような個人を前提として考え、「個人と社会との連関において具体的に捉へなかつた」ことを、そして世界主義的側面に関しては、「各々の民族の有する固有性や特殊性に対する深い認識を有しない」ことを批判する。また三木は、「あらゆるものが政治に従属する」のが現代の特徴であり、この現実を自由主義的に回避するのではなく、むしろ発展させなければならないとも述べている。これらの論点にはシュミットの自由主義批判との類似点を見出すことができる。

 

 それではこうした彼の批判は、どのような理論や概念によって基礎付けられるのだろうか。その代表が『政治的なものの概念』で提唱されたいわゆる友-敵理論、すなわち「政治的なもの」と名付けられた枠組みである。

 シュミットは諸領域の中立化・非政治化が猛威を振るう中でも、その根底にはそれらを作動させるための政治的決断が存在すると考えた。彼の認識の基礎にあるのが、人間や集団を友と敵の二つに区別する友-敵の指標である。それは現実に存在するあらゆる具体的な対立の「結合もしくは分離、連合もしくは解離の最強度をさす」ものであり、存在そのものの否定が可能な他者として「敵」を規定する*。政治における決断は、かかる敵の規定と不可分である。無論、シュミットは現実に存在する具体的対立を、すべて対立相手を物理的に抹殺するような戦争の枠に当てはめようとしたわけではない。重要なのは、あらゆる対立関係の内に存する、生死を賭けた闘争への発展可能性である。

 

* なお1927年版の「政治的なものの概念」にこの指摘は見られず、友-敵の区別は道徳、美、経済などと並列的な範疇とすることでその独自性が規定されていた。和仁陽『教会・公法学・国家』によれば、「政治的なもの」を強度と見る見方が完成するのは、1932年版の前に書かれた「国家倫理と多元主義国家」(1931年)においてである。

 

 ところで、友-敵の対立関係は、政治的な概念、表象、用語をめぐる抗争と不可分に結びついている。シュミットは政治的な概念の例として、国家、共和国、社会、階級、主権、法治国、絶対主義、独裁制、計画、中立的国家、全体国家などを挙げるが、これらの概念が実際に用いられるためには、それが問題とするもの、すなわち闘争・否定・反駁する対象が具体的に把握されていなければならない。シュミットはその例として、マキャヴェリの概念規定を挙げる。彼は君主国でない国家をすべて共和国と名付けた。これら二種類の国家のあり方は、彼にとって友-敵の対立状況の具象であった。そしてこの定義は受け継がれ、シュミットの時代に存在する対立をも規定し得るものとなっているのである。

 このことを踏まえると、普遍的概念の独占の問題を論じたシュミットの着眼点がより鮮明になろう。技術の時代には、中立的・非政治的とされた諸領域も対立すなわち決断の当事者となりえ、敵の規定を行い得るのであった。したがって、あらゆる領域における概念の規定は、否定の対象の規定を伴うことになる。つまり語の規定は、それ自体闘争的なのである。これに対し西洋諸国の諸勢力は、技術に依拠することで、対立そのものがあたかも存在しないかのように振る舞った。すなわち、自らの語の規定を所与のもの、自明のものと見做し、その根底にある闘争に対する思考を遮断したのである。その例としてシュミットは、「貢」と「賠償」という、法学概念上の抗争を挙げる。

 

第二インターナショナルの数多くの社会主義者たちは人びとが武装したフランスが武装を解除されたドイツに強制している支払いを「貢」とは呼ばずに「賠償」とのみ呼んでいるのを高く評価している。「賠償」は「貢」よりも法学的、法的、平和的、非抗争的、非政治的であるように見える。だがよく考えてみると、この語は法的反価値判断、そして道徳的反価値判断すらをも、強制された支払いを通じて敗者の法的、道徳的資格剝奪のために政治的に利用しているのだから、もっと強度に抗争的であり、それゆえ政治的でもある。(同上)

 

普遍主義的な闘争では、対立が生じた瞬間に自らの側の絶対的な正当性が、つまり概念の真理性が自動的に担保される。いわば普遍的概念を持ち出すことそれ自体によって、自らの立ち位置の正しさを証明しようとするのである。この場合、暗に規定された敵はもはや対等に闘われるべき相手ではなく、蹂躙・排除の対象となる。普遍的概念は、この隠蔽によってまさに普遍的概念たり得ている。普遍主義のこのような性格は、絶対否定性と呼べるであろう。

 『政治的なものの概念』で主題に取り上げられたのは、友-敵の区別を通じて明らかとなる、あらゆる対立に横たわる生死を賭した闘争の可能性であった。シュミットがこれを強調しなければならなかったのは、時代を席巻する自由主義の思潮が闘争から目を逸らすことで成り立っていたためである。ここで注目すべきは、彼が眼目を置いていたのはあくまで闘争状況の存在そのものであり、闘争の具体的な内容ではないということである。すなわち、「政治的なものはその力を人間生活のありとあらゆる領域、宗教的、経済的、道徳的そしてその他の諸対立から引出すことができる」のである。ハインリヒ・マイアーはかかるシュミットの理論的特徴に、ある種の寛容を見て取る。

 

政治的であるとは、「危急の事態」に合わせるということである。それゆえ、政治的なものそのものを是認するとは、闘争そのものを是認することであり、何のために闘争がなされるかについては、まったく無関心なのである。〔…〕政治的なものそのものを是認する者は、「真剣な」すべての確信に、つまり戦争の実際の可能性に目を向けたすべての決断に敬意を払い、寛容にふるまう。(マイアー『シュミットとシュトラウス』栗原隆・滝口清栄訳)

 

 シュミットは闘争の多元性を承認する。このことはまた、一つの政治主体が異なる複数の対立の内に身を置くことが可能であることも意味する。それゆえ、通常対立すると見られる二つの主体が、特定の闘争状況において味方同士になるといった事態さえ、十分にあり得るのである。「ローマカトリック教会と政治形態」(1925年)にて言及された、パリ・コミューンにおける教会とマッツィーニの共闘関係も、このことを一面において示していると言い得るであろう。敵の規定とは、その具体的対立の枠組みの中に限って相手の存在そのものを否定する可能性を承認することであって、対立の外においては何ら意味を持たない、つまり普遍性を持たない規定なのである。

 この指摘が含意するのは、個々の敵の規定の相対性である。対立の内部においては、自らの側を無条件に正当化する基準など存在せず、主体はただ闘うしかない。したがって、ある主体が敵を規定することと、その「敵」が主体を敵として規定することは、当の主体にとっても等価値であらざるを得ないのである。このことから、存在そのものを否定し得る対象として敵を規定することは、同時に敵によって自らの存在そのものが否定される可能性を了解することを意味する、と結論できる。いわば「政治的なもの」は、自己否定性をその内に含んでいるのである。

正しい生き方

全部偶然なのだろう。将棋の名人が他のゲームや、あるいは数学のような分野ではなく将棋で活躍していることにも、天才的な芸人が印刷工になることをやめてお笑いの学校に入ることを決めたことにも、必然的なものは何もない。だから、何らかの極めて優れた才能を持ちながらも、その才能を活かすことなく一生を終えた者も、思っているよりたくさんいるのだろう。ある世界的な思想家の周りによき支援者や読者がいなかったら、あるいはそもそも彼が何の話をしているのか、誰も理解することができなかったら、その思想は後世に残らなかったか、残ったとしても誰にとっても無意味なものでしかなかっただろう。結局のところ、我々の生がいかなる生であるかということは、我々のあずかり知らぬところで決まってしまうことも多い。我々はそれが希望に満ちたものであれ、あるいは絶望的なものであれ、与えられた生を生きるのだ。

 

大学で所属していたコミュニティによっては、一人や二人が卒業後に音信不通になることはそう珍しくない。そういった人々はしばしば、真理や正しい生き方を求めて精神世界に傾倒したり、あるいは同じような考えを持つ者で集まって共同生活をしたりする。しかし多くは、そうした出来合いの正しさには満足し切れない。もしそれで満足できるのであれば、日常生活に正しさを見出せずに別の正しさを模索したりなどしないだろう。だから彼らはふらふらと色々な "真理" に手を出す。そのような態度が、周囲の者に不安定なものとして映るのも無理はない。だから日常へ引き戻そうと試みる。でっち上げられた真理よりも、普段の生活の、何気ない関係が重要なのだと、説得するのである。だがその言葉は、当の本人からすれば、どうせ真理など存在しないのだから、みんなで慰め合って生きるしかないじゃないか、という風に聞こえるのかもしれない。そんなものは真理の探究に挫折した者が吐き捨てる弱者の言葉に過ぎないと彼は言うかもしれない。そうすれば彼の心はますます遠ざかるだろう。では、周囲の者はどうすべきなのだろう? 彼が行っている真理の探究もまた、それのために生を捧げられるような究極目的としての真理など存在しないということに耐えられない弱者の行為なのだと非難して改心してくれるなら苦労はないのだが。

 

どんな真理も、それがまったく真理ではない可能性があり得るという前提の上で初めて真理たり得る。だから、これこそが唯一正しいのだと言うとき、我々は実際にはそれが唯一正しいかのように振る舞っているに過ぎない。"真理" に囚われる彼に、君はどの「真理劇」を演じるのか選択することができる。そうすればそれこそが真理なのだ、と言って聞かせたら、彼は何と答えるだろうか。

セカイ系の意義など

庵野秀明紫綬褒章を受章したということで、久しぶりに『新世紀エヴァンゲリオン』を観た。

本作は登場人物の抱える個人的な困難と世界の危機という壮大なテーマとが結びついている、セカイ系と呼ばれるジャンルの先駆けとして知られるもので、いわゆる通常のロボットアニメとは一線を画す独特の重みをもった名作である。1995年にアニメが開始し、ついこの間新劇場版が完結したというのだから、本作にどれだけ多くのファンがいるかは想像に難くない。葛藤のシーンに流れる妙にスピリチュアルな音楽とか、旧劇場版の素朴だが整った作画とか、細かな部分に目を向ければ話題は尽きない。しかし最近これについて友人と話をしたら、ファンの間でさえ、作品の極めて重要な部分に関する認識に齟齬があることに気が付いた。そこでここではエヴァンゲリオンのごく基本的な部分について私が考えていたことを書き留めておくことにする。

 

何よりもまず確認しなければならない点。旧劇のラストシーンでシンジに首を絞められたアスカが「気持ち悪い」と呟いた意味は何か? サードインパクトの結果、人類が生命のスープへと還った地球で、浜辺にヒトの形を保ったまま取り残されたシンジは、同じく取り残され、傍で横たわっていたアスカの首を絞める。アスカが首を絞められたままシンジの頬を撫でると、シンジは手を放し、すすり泣く。それを見たアスカが、引きの画で「気持ち悪い」と小さく発し、物語は幕を閉じる。

この印象深いラストシーンは、その発言の真意をめぐってかなりの議論を巻き起こしたようである。しかし本作全体で一貫していたテーマを考えれば、その意図は明らかだ。つまり、他者がいるとはどのようなことか、という問いに対する庵野の答えが、ラストシーンに要約されているのである。

ゼーレの目的が何であれ、人類補完計画は人間一人一人にとって、他者を失うという意味を持っていた。補完によって人間は自分と他人の境目を失い、もはや「他人の恐怖」に苦しむ必要がなくなるのである。それはシンジや他のすべての登場人物にとって、救いとなる側面があった。このことは彼らが様々な他者との関係に苦悩するシーンがよく描かれていることからも明らかだ。

しかし一方で、彼らが他者との関係を通じて、そのために生きてもいいと思えるような真実を得たことも事実だろう。件のラストシーンの直前、シンジが精神世界で発した「でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは、本当だと思うから」という台詞は、これまで人を傷つけることや人から傷つけられることを恐れていたシンジが、それ以上に真実としか思えない結論にたどり着き、悟りを開いたことを示唆する決定的な言葉なのだ(ちなみに漫画では、同様の言葉が精神世界上の綾波に対して向けられる。これは綾波との恋愛描写がやや強い漫画版ならではだが、程よい改変だと思う)。

シンジは物語の最後に、ついにこの境地に達する。しかし重要なのは、それを悟ったからといって「他人の恐怖」を克服することができるわけではないということだ。悟りによっては、彼の世界は何も変わらない。世界を180度ひっくり返した後にもう一度ひっくり返すようにして、彼はまたスタート地点に立っただけなのである。

庵野はおそらく、シンジが他者と生きることを選択したことで一つ大人になった、というような締めくくり方を望まなかったのだろう。それがどんなに他者の愛や温もりといった出会いを含むとしても、他者と生きることは、根本的には傷つけ、傷つけられることを免れ得ない。シンジが首を絞め、アスカが頬を撫で、泣き出すシンジを見て「気持ち悪い」と呟く。この一連の描写は、他者との間で不可避的に生じる関係の調和や違和をそのまま表しているのである。したがって、あのシーンにおいては「気持ち悪い」という言葉だけが別段深い意味を持っているわけではない。そこに至るまでの描写と同じように、彼が選択した、他者がいる世界とはどのようなものであるかを暗に示しているにすぎないのである。

 

では、なぜシンジとアスカなのか? それは偶然と言うほかない。シンジにとってアスカのみが特別な存在だったとも思えない。彼にとってはレイもミサトもカヲルも、愛憎の程度や中身に違いこそあれ、等しく他者であることに変わりはないのである。実際、彼の精神世界においては、アスカのみならず主要な女性キャラクターのイメージが想起されているし、カヲルとの親密さにも、友情とは異なる関係を示唆するものがある。とどのつまり、誰でも良かったのだ。

ここに、シンジのエゴイズムを読み取ることができる。彼と他のキャラクターとの関係は、どれも極めて曖昧である。彼は様々な状況において、不安や寂しさを埋めるために他者を欲する。こうした彼の態度は、旧劇場版の精神世界において、アスカの「あなた他人のことには興味ないもの」という言葉によって糾弾される。

しかしエゴイズムは、何もシンジに限って見られるわけではない。本作の登場人物全員に当てはまるものだろう。アスカの「あんたが全部私のものにならないなら、私何もいらない」という台詞は、まさに彼女のエゴイズムを表している。ミサトと加持でさえ、単なる恋愛関係にある(あった)のではないことは、作中でも語られている。すなわちミサトは憎んでもいたはずの父の姿を加持に見出し、その不在を埋めるために関係を持っていたと告白するし、一方の加持は、飄々としていて愛想の良さが描かれつつも、背後には常に独立した自らの行動原理を持っている。そのシビアな職務とは対照的にスイカを育て、またそれこそが最も重要なことであるかのように振る舞う一面を持っているのも、彼のエゴイズムをよく表していることは言うまでもない。少なくともミサトは、こうした彼の人間性を的確に見抜いていたように思える。またリツコも、失恋の末にNERVの施設ごとゲンドウとの心中を試み、同じく彼を愛した母ナオコに裏切られる。そしてゲンドウは、初号機に取り込まれた妻にもう一度会うために人類を巻き込もうとする一方で、息子を傷つけ、また息子に傷つけられることを、息子と同じように恐れている。そんな彼の計画を、レイは最後の最後で突き崩す。

作品を通して一貫しているのは、まず各々が有しているエゴイズムに焦点が当てられ、そこからそれぞれの関係が導かれる、という描かれ方である。そのため、関係の根底には常に自分と他者という構図が存在し、親子であれ男女であれ友であれ、それ以外の関係性と呼べるものはさしたる意味を持たない。作品が強調していたのは、こうしたキャラクター同士のカオスな関係性であったように思う。一つ一つ取り上げることはしないが、新劇場版でそれらが小綺麗なものに整理されてしまったのは残念なことだ。まして、『シン・エヴァンゲリオン』でゲンドウが彼にとってどれだけ妻が大切な存在であったか語る描写など、まったく必要なかったはずである。

余談だが、『エヴァ』における他者との関係性に比べて、宮崎駿の描く他者はなんと素直なことだろう。例えば、『天空の城ラピュタ』のパズーとシータは、互いの存在が互いの行動原理を形成している。そこには、他者がいなければ自分もいないという、友情や恋愛以前の素直な他者との関係が現れている。『エヴァ』とは真逆の部分を強調しているようにも思うが、私はこのような描き方もまた、とても好きだ。人間は本来素直に生きることしかできないから(それゆえ『エヴァ』はいわば禁忌を犯しているとも言える)、『ラピュタ』の描き方は真理を突いている。

 

しかし、彼らのエゴイズムはみな同じように描かれているわけではない。それはときに大人の事情とか、世界の事情といった姿で現れる。例えば、第一話でゲンドウやミサトやリツコがシンジに対しエヴァに乗るよう迫ったのは、彼らのエゴイズムを踏まえれば、単に世界を救うという使命感からではないことは明らかだ。それにもかかわらず、それらはシンジに決断を迫る段階になると、常に世界の危機との対峙という形で現れるようになっているのである。しかしだからといって、彼らは別に自分の目的のために世界を持ち出すような方便を使っているわけではない。そうではなく、彼らのエゴイズムは、それぞれの仕方で実際に世界の存亡と繋がっているのである。本作のキャラクターは、実は誰も世界のあり方になど興味はない。みんな、自分の話をしているに過ぎないのだ。ただそれが誰かに向けて話されると、世界の話のように聞こえるだけなのである。だから誰かが世界に対しコミットしたとしても、それは単に結果としてそうなったに過ぎない。

しかし子供は、しばしばこの自分と世界とが貼り付いているという事実を知らないがゆえに困惑する。シンジやアスカは、エヴァに乗る意味を求め続けた。自分の存在意義とかいうものを、自分を超えた存在に委ねることで、自らの価値を担保したがったのである。いわば彼らは、世界しかないと思い込んでいた。

だが、それもまたエゴイズムなのである。誰かのために乗るのか、それとも自分のために乗るのかということは、本当はどちらでも変わらないのだ。そのことを知ったうえで、どれか一つを決断しているということが、人間であるということなのである。そしてまた、エゴイズムをエゴイズムと呼ぶことも、実は世界の側に立ったうえではじめて可能になることなのだ。

思えばシンジに降りかかる言葉や自らに語り掛ける言葉は、すべてがこのことに気がつくのを妨げるものだった。いや正確には、言葉とは常にそのような性質を帯びるものなのである。自分のためにエヴァに乗るとか、人間は弱いから互いに補完し合うとか、あるいは互いにわかりあえるかもしれないという希望でさえ、すべて世界の都合に過ぎない。世界に対する「僕はここにいてもいいの?」という問いかけは、無意味なのだ。「もう一度会いたいと思った」というそのことだけが、彼にとっては真実なのである。そのエゴイズムこそが、世界を左右する。だから彼がそう望んだ以上、物語の終幕の後、世界には他者が戻ってゆくはずである。

そしてその世界は、別に楽しいものでも苦しいものでもない。あの終幕は、庵野がそのことを視聴者に、そして何より庵野自身に戒めるためのものであったに違いない。逆に、アニメ版の最後で語られた、他者が決めた価値に捉われず、見方を変えれば違う世界が開ける、という結論は、心理学的なアドバイス以上の意味を持たない。他者が決めていようといまいと、自分にとって見える世界は常に変わらないのである。

 

エゴイズムと世界の不断の結びつきのもと描かれた本作だが、その中で私が最も好きなシーンは、サードインパクトのときに伊吹マヤがリツコの幻影を見て、恍惚の表情を浮かべながら液体へ還る場面だ。このシーンこそ、セカイ系というジャンルの唯一の存在意義と言えるだろう(多くの「セカイ系」と呼ばれるアニメは、世界のこうした構造に目を向けず、単に主人公ないしヒロインが世界の命運を握るメロドラマないし悲劇に成り下がっている)。彼女は世界の終わりによって、まさに彼女が最も望んでいた人から、最も求めていた言葉を手に入れたのである。I NEED YOU. とは、言い訳のきかない、ただそうであることを伝えるだけの言葉だ。しかし、本当はどんな言葉も同じように、ただそうあるだけなのである。

 

それにしても、世界が終わりかけているのに、それを何となく察している人たちもみんなやけに明るいのが気になる。もしかしたら自分たちも同じかもしれない。政治や経済のシステムも、よくみると穴が開き過ぎていて、それでも生きてはいるから。

注釈的態度

「学生と話していると、今の若い人がどれほど禁欲的に他者の内面に踏み込むことを悪と感じ、忌避しているかがわかって驚くことがある。」

との投稿を見かける。

私も同年代の人と話していると、私としては何も思わないような言い回しでものを言った後に、慌てて相手の誤解を招かないよう注釈?を付け加えるような話し方をされることがよくある。彼らの態度からは、自分の言葉で他者が傷つかないよう、細心の注意を払っているという印象を強く受ける。

だが、言葉というのは気を遣って用いさえすれば他者を傷つけなくなるといった性質のものではない。言葉を発するということ自体に、副次的なものではあるにしても、他者を傷つけ得るという性格が内包されている。そういった苦しみもまた引き受けることが、発話するということなのである。

だから私は、彼らの注釈的態度にはいくらか欺瞞的なものを読み取る。そうやって注釈を付せば他者に対し十分に倫理的責任を果たすことができ、また発話の苦しみをも手放すことができると思い込んでいるような印象を受けるのである。

もっとも、注釈を付すことで責任を果たすことができるわけではないからといって、諦めて他者に対し気を遣うことを放棄すべきだというわけではない。重要なのは、この発話の不可避的な性質を自覚していることだ。

 

投稿の主はこうした傾向と、ヒット映画において描かれた「マイナーな趣味を介して男女が一切の暴力性を無縁に通じ合い、心と体がつながるという奇跡のような事態」が好まれることとは無関係ではないと見る。それはおそらく正しいだろうが、しかしそうであるとすれば、その傾向は別にここ数年で突然湧いて出て来たわけではないだろう。例えば、『エヴァ』で庵野が夢想したゲンドウとユイの関係性などは、まさにそのようなものであったはずだ。

昔は現実世界に非常に小さな位置を占めるのみだったオタクないしインターネット特有の振る舞いや言葉が段々とリアルな世界を侵食するのに比例して、こうした恋愛観もまた現実世界で広く支持されるようになったのだろうか。