天才と勇気

告白と嘘は同じものである。告白できるのは、嘘をつくからだ。人はありのままの自己を表現することはできない。まさにそうであってこそ人間だからである。(カフカ『断片』)

 

思想に値札を付けることが出来るかもしれない。値段の高い思想もあれば、安い思想もある[ブロードの思想はみんなじつに安物だ]。さて思想の代金は、なにをもって支払われるのだろうか。私の考えでは、勇気によって。(ウィトゲンシュタイン『日記』)

 

我々が問題を立てるときに必要なのは勇気だ。ひとは新たな問題を論じるとき、しばしば、既存の問題群のなかから根拠を引っ張り出してくることによってその問題の問題性を論じ、説得しようとする。しかしそのようにして取り上げられる問題は、実際には既存の問題を扱っているに過ぎない。真に新たな問題が論じられるには、どこに問題があるのか人々が理解していないような何か、人々がまさにそれに寄って立っている何かの問題性が、単にそれのみで主張されなければならないのである。

もちろん、そうすることは困難を伴う。いかなる理由も、そこには求めることができないからだ。それゆえ、新たな問題の存在を主張する人は、何が問題であるかをそもそも知らない人々に対し、とにかくそれが問題であることを言い立てることしか、究極的にはできない。したがって彼は常に、社会という既存の問題群から逸脱した存在であらざるを得ないことになる。しかし当の本人にとっては、そうすることはあくまで彼の内から切実に要請されるものであるから、既存の問題群から逸脱しつつも彼の問題について言い立てることしかできない。既存のいかなるものにも依拠せず問題に向き合い続けること。こうした態度に求められる勇気は並大抵のものではない。この勇気を持ち合わせ、既存の問題群を塗り替えてしまうような問い、尺度を持つ人間は、天才と呼ばれる。プルーストは、『失われた時を求めて』の中で「私」が心酔する音楽家と小説家について、ほとんど同じような観点から彼らの天才性について記述している。

 

ヴァントゥイユのソナタのなかでもっとも早く発見される美は、もっとも早く飽きられる美でもある。その原因もおそらく人生と共通しており、人びとがすでに知悉している美とさほど違わないからである。ところが、そのような美が遠ざかってようやくわれわれは、あまりにも斬新すぎて精神に当惑しか与えず、識別できないまま手つかずに残っていた楽節を愛するようになる。(略)ひとりの人間がすこしでも深遠な作品のなかに入り込もうとするときに必要になるこの余分な時間は――私の場合このソナタのために必要とした時間は――、一般の人が真に斬新な作品を愛するようになるまでに流れる数世紀にもわたる歳月の縮図であり、いわばその象徴なのである。(『失われた時を求めて』吉川訳、花咲く乙女たちのかげに1 、p.228)

 

天才とは、いや傑出した才能でさえ、ほかの人より優れた知的要素や社会的洗練から出てくるというより、むしろそれらを変形して移し替える能力から生まれる。(略)天才的作品を生みだすのは、(略)自分の人格に鏡のような働きをさせる能力を獲得した人たちである。そうすることでその人生がそもそも社交的にみて、いや、ある意味では知的次元でみて限りなく凡庸であったとしても、その人生を鏡に映しだすことができる。けだし天才とは、このような映しだす能力にあるのであって、映しだされた光景に内在する美点にあるのではない。(同上、p.280)

 

では、このような特性、まったく独立して新たな尺度を打ち立てるような特性は、天才のみに備わっているものなのだろうか。そうであるとすれば、当然ながらすべての人間は、こうした能力を持つ人間=天才とそうでない非天才に二分することができることになる。こうした観点に基づいてある人物が才か否かを判断することは、彼が同時代もしくは後世の大勢の人々から彼の打ち立てた尺度を発見され、評価されたか否か、という、いわば歴史の偶然に評価の基準を委ねることだろう。しかしそうであるとしても、我々は、既存の問題群とは全く異なる問題や尺度を持ちながらも、決して人々に発見されることも、ましてやそれが歴史に記録されることもなく消え去っていった「天才」が存在したことを否定することはできないのである。そしてまったく同様に、例えば『失われた時を求めて』における音楽家と小説家も、彼らの真に天才的な部分について、その価値が理解されることなく忘れ去られる可能性は大いにあったはずであり、彼らと上述の「天才」を分つものは、その他大勢の凡才が後になってその価値を偶然理解できたか否かという、極めて外在的な基準に過ぎないのである*。

 

*実際に天才と評された人々と「天才」の間に内在的な美的価値の差異を認めることが不可能なわけではない。しかしその場合であっても、前者が後者より優れており、大勢の人々からの称賛を受けるに値したと言えるための指標は、既存の指標か、あるいは天才がすでに塗り替えてしまった、つまりその天才自身が「鏡」として振る舞う指標でしかあり得ないのである。

 

このように考えてみると、天才が持ち合わせている勇気とは、実は何かを言うこと、ないし主張することそのものが必然的に伴う苦しさに伴い要請されるものということが明らかになってくる。何を言うのにも究極的にはそれのみで主張されているのであって、自らの言葉を支え、保護してくれるような、安らぎとなる何かなど存在しない。そしてこのことは、世間一般で言うところの天才に限ったことではなく、誰にとっても同じことなのである。誰が発する言葉であっても、そこには常に逸脱の可能性が付きまとう*。この意味で我々は、常に何らかの新たな問題提起の場に直面しているのである。

 

*そのため社会や既存の問題群という存在も、詰まるところ、我々一人一人が持つ尺度が一致していることから偶然そのようなものが成立しているように見えるに過ぎないと考えることもできる。

 

小林秀雄は「モオツァルト」において、天才的精神は容易なことを嫌うがゆえに、制約や障碍のないところに自ら進んで困難を発明し、これを乗り越えようとするものだと述べた。私はこの考え方に与しない。世間で天才と評価されている人物であれそうでない者であれ、難問に直面する者は、彼自身にとっても困難が存在しないところにストイックに難問を見出すわけではなく、芸術の創出や日常的な発話に際して、実際に難問に直面して”しまう”のである。

 

単にそれのみで主張するということは、それが他の何によっても正しいと根拠づけることができないことを理解したうえで、それでもそうなのだと主張することである。だから、そうする者は、同時にそれがまったくもって正しくないのだと主張することも可能でなくてはならない。つまり何かを言うことができるためには、その言葉が嘘であり得ることもまた了解している必要があるのだ。そうであってこそ、人間はまさに人間たり得るのである。