否定(1)

 

  ウルシャナビよ、この草は危機〔をこえるため〕の草だ。

  それによって、人は生命を得る。

                       『ギルガメシュ叙事詩』月本昭男訳 

 

  神はまた人の心に永遠を思ふの思念を賦け給へり

                                 『伝道之書』 

 

 我々は通常、多かれ少なかれ何らかの危機に直面している。それはごく日常的な悩み事かもしれないし、あるいは人間に定められた死の運命かもしれない。これら様々な危機に共通するのは、何事か、ないし何物かに対する否定の性質を有することだろう。例えばギルガメシュにとって死という運命が危機と思われたのは、それが否定すべき対象として彼の前に現れたからである。危機の源泉である否定の性質は、人間の言語的思考の中にのみ認められる。我々に課せられた苦難や問題は、自らが引き受けるべき役割や取るべき立ち位置を我々自身に問わせる。こうして危機的状況と向き合い、それを否定することを通じて、人間はひとまず拠り所とする”永遠”をその都度見出しながら、さらに問いを重ねてゆくのである。若返りの草は、ギルガメシュに文字通り永遠を授けるはずであったが、その希望は蛇に草を奪われることであっけなく崩れ去る。真の意味で永遠がもたらされることなどないという真理が、彼に襲い掛かるのである。しかし、かかる冷徹な真理と危機の意識との間で彼が苦難の道を歩んだ、その探求の事実にこそ、彼の”永遠”は見出されるのではないか。この永遠は、思想と呼ばれる。

 人類が二つの大戦を経験した20世紀の前半は、とりわけ否定や対立が様々な形として現れた時代であったと言えよう。哲学者三木清と国法学者カール・シュミットは、かかる人間的な時代に置かれて、ともに否定に注目する政治思想を展開した。それらは日本主義と自由主義という、現実政治におけるそれぞれの”敵”に対峙するものとして打ち出された。

 二人の間には、直接的な接点があったわけではない。また、三木がシュミットの思想に影響を受けたような目立った形跡も見られない。それどころか三木は、シュミットの理論は第一次世界大戦で敗北を喫したドイツに固有の状況においてこそ意味を有するものであり、それゆえ民族主義的な主張の域を出ないとさえ考えていた。しかし、このような相対立する側面にもかかわらず、両者の思想には否定を軸とした近接性が見られる。本稿のもくろみは、三木の哲学的ないし政治思想的洞察から、シュミットの「政治的なもの」の枠組みを捉え直すことにある。両者の思想はどのような意味で類似し、また異なるのか。

 

 シュミットが教授資格を得て大学で教鞭を執るようになった戦間期は、彼にとって危機が、様々な形で迫っていた時代であった。連邦国家としての帝国を支えていた君主制原理を敗戦によって失ったドイツは、共和国として生まれ変わるも、左右の反体制派の攻撃に悩まされ、政治的混乱が続いた。このような状況においてシュミットは、君主制の終焉というドノソ・コルテスの認識を継承し、王朝的正統性から民主的正統性への転換を受け入れたうえで、国家の例外状況において顕わになる、主権者の「決断」の重要性を説いた。この問題意識は、決断の絶対性を神の超越性に類比するという『政治神学』(1922年)の成果へと結実した*。また、かかる洞察を土台として、ヨーロッパ精神史における20世紀を政治的決断の意義が極限まで矮小化された技術の時代と捉え、そこに至るまでの文明論的経緯について論じたものが「中立化と脱政治化の時代」(1929年)である。そして何より、シュミットは、第一次世界大戦での母国ドイツの敗北と、ヴェルサイユ体制における同国に対する厳しい戦争責任の追及、そして主権の制限という仕打ちを目の当たりにしていた。彼はその背後に、一方で平和や人類の進歩を謳い、国際連盟を設立しながら、他方で帝国主義的拡張によって得た権益を手放そうとしない西洋諸国の偽善を見たのである。このような西洋諸国の態度は、彼の主著『政治的なものの概念』(1932年)において痛烈に批判された。

 

* もっとも、超越的な決断の弱体化と君主制の弱体化との間に因果関係を読み込むシュミットの見解は、史実的観点からは疑問が残る。また、そもそも彼の生きたプロイセンの王家はカルヴァン派プロテスタントであり、カトリシズムに基づくシュミットの洞察が同国にそのまま適用され得るとは言い難いということにも留意する必要があろう。

 

 以上のすべての危機を貫いていたものが、自由主義であった。シュミットは少なくとも戦間期において、一貫して自由主義と対峙していたのである。しかしながらこの自由主義という思想が孕む問題は、すでに述べたように、様々な形を取って現れた。自由主義の多様な側面に共通して見られる根本的な問題とはいかなるものであろうか。この点がまず明らかにされなければならない。

 シュミットが指摘する自由主義の問題点は、二つの段階に分けることができる。一つは、ヨーロッパにおける中立化の過程の延長線上、自由主義諸国台頭のさらに先に、徹底して中立的・非政治的な技術の時代が到来したこと。もう一つは、このように技術の時代が到来した帰結として、西洋諸国が普遍的概念を独占する事態が起こったことである。

 諸領域の中立性・非政治性をめぐる問題意識は、「中立化と脱政治化の時代」の中で詳細に述べられる。シュミットによれば、ヨーロッパにおける人間生活の中心領域は、16世紀から19世紀にかけて神学→形而上学人間主義・道徳主義→経済と変遷し、20世紀には技術に完全に移行した。技術以前に中心を占めていた諸領域は、それぞれの時代において自明で中立的な基準たることを期待された。そのため、中心領域で問題が解決すれば、周縁領域の問題も附随的に解決へと導かれるはずであった。しかし実際には、中心領域では神学的論争のように対立が絶えなかった。対立は単に観念的なものには留まらず、例えば神学が中心領域の時代において「領土を支配する者が宗教を支配する」と言われたように、具体的な形を取って現れた。そこで際限のない闘争を避けるべく、新たな中立性を求めて中心領域が移り変わっていった。技術が中心領域となったのも、それが新たな中立的基準としての役割を期待され、経済に取って代わったためである。したがって、「技術一点ばりの思惟においては新たな技術的発明が経済発展をも解決するとされる。技術の進歩こそ第一の課題であり、経済問題をふくめた他のすべての問題は舞台から退く。」かくて技術は、あらゆる領域の客観的・普遍的基準として20世紀の中心領域に君臨したのである。

 しかしながら、技術には、従来の中心領域とは異なる性質があった。技術はとどのつまり単なる装置に過ぎず、それが作動するために必要な人間の決断は、技術には内在し得ない。それはあくまで「自分から動き出すことはできず、人が使ってくれるのを待っている」ことしかできないのである。このことはある意味で、16世紀以来の中立化の過程が極限に達したことを表している。なぜなら技術の時代にあっては、たとえ文化、民族、宗教、戦争、平和といったあらゆる領域で困難な問題が生じても、技術という装置に投げ込むことで自動的に客観的・普遍的な解決がもたらされることが期待されるからである。これは技術以前の中心領域では見られなかった、技術の装置としての特有の性質である。

 しかし他方で、技術はいかなる中立性も持たないとも解すことができる。というのも、諸領域が技術を利用することによって生じるのは、実際には問題の解決ではなく、隠蔽と言うべきものだからである。

 

今日なお多くの人々は技術の進歩によって人道や道徳の進歩がもたらされると期待しているが、これは技術と道徳の魔術的結合を信じ、さらに現代技術の巨大な機構はもっぱら自分たちのような考えで動かされること、即ち社会学的にいえば、自分たち自身がこの恐るべき武器の主人であって、その持てる巨大な力は我がものだと素朴に前提するものである。(シュミット「中立化と脱政治化の時代」長尾龍一訳)

 

 諸領域ないし諸集団がそれぞれ、自分こそが技術を独占していると考えるような状況は、従来の中心領域をめぐる対立とは異なる。そこでは決断や対立相手など初めから存在せず、あたかも自らの寄って立つ技術の用い方が自明であるかのような装いがなされ、また技術の使用によって自動的に導かれた一つの”解決”が、あたかも不変の真理であるかのように振る舞うことになるのである。国家を、その基礎にある政治的決断を度外視し、実定法体系と同一視したハンス・ケルゼンの純粋法学などは、その最たる例と言えよう*。

 

* なお、シュミットは『政治神学』の中で「法的推論においては微細な点まで前提から演繹されうるものではなく、独自に決定の必要な決断の要素の介入が不可避」であると述べている。ここで指摘されているような、「法の綻び」(ハート『法の概念』第7章)を埋め合わせるために必要とされる決断と、本稿で注目する政治的決断は区別されなければならない。前者は法適用の内容に関する決定であるのに対し、後者は法の適用自体についての決定であるという意味で、両者には明確な差異が存在する。

 

 シュミットはこうした技術における中立性を、19世紀ヨーロッパの自由主義国家が自らを不可知論的中立国家(stato neutrale ed agnostico)と称し、その存在理由を中立性に求めるようになったことと連続的な事象として捉えた。決断主体たる国家までもが中立化の流れに飲み込まれたことで「政治神学の一章」が完結した、その極限に技術の時代が位置づけられるのである*。技術を利用する者は、自らの中立性から逸脱する存在を自動的に、対立相手ではなく、逸脱者と見做す。こうした政治的決断の矮小化こそが、「最も恐るべき戦争が平和の名のもとで、最も恐るべき隷従が自由の名のもとで、最も恐るべき非人道が人道の名のもとで行われる」という、自由主義の倒錯した悲劇をもたらすのである**。

 

* 国家の中立化という現象がとりわけ特異的なものと見做される背景には、ドノソ・コルテスから受け継がれた自由主義に対する見解が存在する。彼は自由主義を、神の真理に基づく決断を拒む存在と捉えた。したがって自由主義は、16世紀以来の主権国家とも真っ向から対立するということになろう。かかる「十九世紀における国家中立性論」は、「過去数世紀の西洋史の特徴たる精神的中立性への一般的傾向」の帰結である。

** 彼の立場を踏まえ、シュミットは彼の時代に通底するニヒリズムを指摘し、その克服を目指したと指摘する向きも存在する。実際、このような理解は、技術が獲得した”中立性”を神学以来の中立化の過程と連続的に捉えた、カトリックであるシュミットの問題意識を精確に射貫いていると言えるであろう。一方で、これを逆転させて考えれば、技術の時代には人間がキリスト教の超越的な基準に身を委ねることをやめ、「自由なる精神」のもとに自らの生を生きるようになったという意味で、むしろニヒリズム克服の時代が到来したとも解すことができる(ニーチェ『悦ばしき知識』箴言343)。そしてこの時代にあって人間は、決断の基準を自らの内に帰属させることが可能となった。したがって「政治的なもの」も、彼の意図に反して、単なる国家学の域を超えた人間学的な意味をも持ち得ることになるのである。

 

 以上のようなシュミットの問題関心は、『政治的なものの概念』におけるそれと重なる。同書によれば、国家が決断を専有し、非政治的な社会的領域の上位に君臨する権力として存在していた時代とは異なり、20世紀においては、国家と社会とが、すなわち政治と非政治とが滲透しあっている。単に非政治的とされてきた宗教、経済、道徳といった諸領域は、すべて政治的なものに還元され得るものとなった。つまり、それらの領域に属する諸勢力がすべて政治的決断の当事者になり得ることとなり、非政治的なものに対する「『政治的なもの』に特殊な区別標識を立てることができない」時代が到来したのである。かかる事態は、すべての領域に属する勢力がアクセス可能な技術の存在を前提として初めて成り立つと言えよう。

 こうした彼の時代認識から、自由主義諸国に対する批判が導かれる。国家内のあらゆる領域に浸透する中立化・非政治化それ自体は、本質的に超国家的なものであろう。ところが、その帰結として生じたのは、「人類」「世界平和」といった普遍的概念を掲げる諸国家の連盟であった。この連盟は、言うまでもなく人類や世界と同一の存在ではないが、しかしこれらの概念を技術と結びつけることで普遍化し、占有する。言い換えれば、連盟に属する国々が「人類」の名のもとに取る行動に、自明な正当性を付与するのである。この普遍化が政治的決断と、それに必然的に付随する敵の存在を隠蔽する作用を有することは、すでに述べた通りである。西洋諸国は結局のところ、帝国主義イデオロギーとして普遍的概念を利用しようと、また逆に、対立する相手からその所有権を剥奪し、排除しようとしているに過ぎない。このような普遍主義的態度は、平和という名目を掲げて行われる「最も恐るべき戦争」に行き着くほかない。

 

「人類」という名の使用、人類〔の名〕の持出し、この語の独占、すべてこれらは、このような崇高な名はなんといってもなんらかの帰結なしには使用できぬものだから、敵に対して人間としての資格を拒み、敵を法外者、人類外者と宣言し、これによって戦争を極度に非人間的なものに仕立てあげようという恐るべき要求のみを表明しうるに留まるだろう。(シュミット『政治的なものの概念』菅野喜八郎訳)

 

 シュミットは自由主義によってもたらされた中立性・非政治性が、技術の時代とともに暴力的な普遍主義を招くことになると批判した。かかる洞察は、戦間期のドイツを生きた彼の切実な問題意識から生まれたものと言えよう*。

 

* ちなみに三木も、自由主義の問題を様々なところで指摘している。彼によれば、自由主義の問題点は個人主義的側面と世界主義的側面の二つに分けられる。まず個人主義的側面に関しては、近代主義的な個人観に依拠し、自由をアトムのような個人を前提として考え、「個人と社会との連関において具体的に捉へなかつた」ことを、そして世界主義的側面に関しては、「各々の民族の有する固有性や特殊性に対する深い認識を有しない」ことを批判する。また三木は、「あらゆるものが政治に従属する」のが現代の特徴であり、この現実を自由主義的に回避するのではなく、むしろ発展させなければならないとも述べている。これらの論点にはシュミットの自由主義批判との類似点を見出すことができる。

 

 それではこうした彼の批判は、どのような理論や概念によって基礎付けられるのだろうか。その代表が『政治的なものの概念』で提唱されたいわゆる友-敵理論、すなわち「政治的なもの」と名付けられた枠組みである。

 シュミットは諸領域の中立化・非政治化が猛威を振るう中でも、その根底にはそれらを作動させるための政治的決断が存在すると考えた。彼の認識の基礎にあるのが、人間や集団を友と敵の二つに区別する友-敵の指標である。それは現実に存在するあらゆる具体的な対立の「結合もしくは分離、連合もしくは解離の最強度をさす」ものであり、存在そのものの否定が可能な他者として「敵」を規定する*。政治における決断は、かかる敵の規定と不可分である。無論、シュミットは現実に存在する具体的対立を、すべて対立相手を物理的に抹殺するような戦争の枠に当てはめようとしたわけではない。重要なのは、あらゆる対立関係の内に存する、生死を賭けた闘争への発展可能性である。

 

* なお1927年版の「政治的なものの概念」にこの指摘は見られず、友-敵の区別は道徳、美、経済などと並列的な範疇とすることでその独自性が規定されていた。和仁陽『教会・公法学・国家』によれば、「政治的なもの」を強度と見る見方が完成するのは、1932年版の前に書かれた「国家倫理と多元主義国家」(1931年)においてである。

 

 ところで、友-敵の対立関係は、政治的な概念、表象、用語をめぐる抗争と不可分に結びついている。シュミットは政治的な概念の例として、国家、共和国、社会、階級、主権、法治国、絶対主義、独裁制、計画、中立的国家、全体国家などを挙げるが、これらの概念が実際に用いられるためには、それが問題とするもの、すなわち闘争・否定・反駁する対象が具体的に把握されていなければならない。シュミットはその例として、マキャヴェリの概念規定を挙げる。彼は君主国でない国家をすべて共和国と名付けた。これら二種類の国家のあり方は、彼にとって友-敵の対立状況の具象であった。そしてこの定義は受け継がれ、シュミットの時代に存在する対立をも規定し得るものとなっているのである。

 このことを踏まえると、普遍的概念の独占の問題を論じたシュミットの着眼点がより鮮明になろう。技術の時代には、中立的・非政治的とされた諸領域も対立すなわち決断の当事者となりえ、敵の規定を行い得るのであった。したがって、あらゆる領域における概念の規定は、否定の対象の規定を伴うことになる。つまり語の規定は、それ自体闘争的なのである。これに対し西洋諸国の諸勢力は、技術に依拠することで、対立そのものがあたかも存在しないかのように振る舞った。すなわち、自らの語の規定を所与のもの、自明のものと見做し、その根底にある闘争に対する思考を遮断したのである。その例としてシュミットは、「貢」と「賠償」という、法学概念上の抗争を挙げる。

 

第二インターナショナルの数多くの社会主義者たちは人びとが武装したフランスが武装を解除されたドイツに強制している支払いを「貢」とは呼ばずに「賠償」とのみ呼んでいるのを高く評価している。「賠償」は「貢」よりも法学的、法的、平和的、非抗争的、非政治的であるように見える。だがよく考えてみると、この語は法的反価値判断、そして道徳的反価値判断すらをも、強制された支払いを通じて敗者の法的、道徳的資格剝奪のために政治的に利用しているのだから、もっと強度に抗争的であり、それゆえ政治的でもある。(同上)

 

普遍主義的な闘争では、対立が生じた瞬間に自らの側の絶対的な正当性が、つまり概念の真理性が自動的に担保される。いわば普遍的概念を持ち出すことそれ自体によって、自らの立ち位置の正しさを証明しようとするのである。この場合、暗に規定された敵はもはや対等に闘われるべき相手ではなく、蹂躙・排除の対象となる。普遍的概念は、この隠蔽によってまさに普遍的概念たり得ている。普遍主義のこのような性格は、絶対否定性と呼べるであろう。

 『政治的なものの概念』で主題に取り上げられたのは、友-敵の区別を通じて明らかとなる、あらゆる対立に横たわる生死を賭した闘争の可能性であった。シュミットがこれを強調しなければならなかったのは、時代を席巻する自由主義の思潮が闘争から目を逸らすことで成り立っていたためである。ここで注目すべきは、彼が眼目を置いていたのはあくまで闘争状況の存在そのものであり、闘争の具体的な内容ではないということである。すなわち、「政治的なものはその力を人間生活のありとあらゆる領域、宗教的、経済的、道徳的そしてその他の諸対立から引出すことができる」のである。ハインリヒ・マイアーはかかるシュミットの理論的特徴に、ある種の寛容を見て取る。

 

政治的であるとは、「危急の事態」に合わせるということである。それゆえ、政治的なものそのものを是認するとは、闘争そのものを是認することであり、何のために闘争がなされるかについては、まったく無関心なのである。〔…〕政治的なものそのものを是認する者は、「真剣な」すべての確信に、つまり戦争の実際の可能性に目を向けたすべての決断に敬意を払い、寛容にふるまう。(マイアー『シュミットとシュトラウス』栗原隆・滝口清栄訳)

 

 シュミットは闘争の多元性を承認する。このことはまた、一つの政治主体が異なる複数の対立の内に身を置くことが可能であることも意味する。それゆえ、通常対立すると見られる二つの主体が、特定の闘争状況において味方同士になるといった事態さえ、十分にあり得るのである。「ローマカトリック教会と政治形態」(1925年)にて言及された、パリ・コミューンにおける教会とマッツィーニの共闘関係も、このことを一面において示していると言い得るであろう。敵の規定とは、その具体的対立の枠組みの中に限って相手の存在そのものを否定する可能性を承認することであって、対立の外においては何ら意味を持たない、つまり普遍性を持たない規定なのである。

 この指摘が含意するのは、個々の敵の規定の相対性である。対立の内部においては、自らの側を無条件に正当化する基準など存在せず、主体はただ闘うしかない。したがって、ある主体が敵を規定することと、その「敵」が主体を敵として規定することは、当の主体にとっても等価値であらざるを得ないのである。このことから、存在そのものを否定し得る対象として敵を規定することは、同時に敵によって自らの存在そのものが否定される可能性を了解することを意味する、と結論できる。いわば「政治的なもの」は、自己否定性をその内に含んでいるのである。