正しい生き方

全部偶然なのだろう。将棋の名人が他のゲームや、あるいは数学のような分野ではなく将棋で活躍していることにも、天才的な芸人が印刷工になることをやめてお笑いの学校に入ることを決めたことにも、必然的なものは何もない。だから、何らかの極めて優れた才能を持ちながらも、その才能を活かすことなく一生を終えた者も、思っているよりたくさんいるのだろう。ある世界的な思想家の周りによき支援者や読者がいなかったら、あるいはそもそも彼が何の話をしているのか、誰も理解することができなかったら、その思想は後世に残らなかったか、残ったとしても誰にとっても無意味なものでしかなかっただろう。結局のところ、我々の生がいかなる生であるかということは、我々のあずかり知らぬところで決まってしまうことも多い。我々はそれが希望に満ちたものであれ、あるいは絶望的なものであれ、与えられた生を生きるのだ。

 

大学で所属していたコミュニティによっては、一人や二人が卒業後に音信不通になることはそう珍しくない。そういった人々はしばしば、真理や正しい生き方を求めて精神世界に傾倒したり、あるいは同じような考えを持つ者で集まって共同生活をしたりする。しかし多くは、そうした出来合いの正しさには満足し切れない。もしそれで満足できるのであれば、日常生活に正しさを見出せずに別の正しさを模索したりなどしないだろう。だから彼らはふらふらと色々な "真理" に手を出す。そのような態度が、周囲の者に不安定なものとして映るのも無理はない。だから日常へ引き戻そうと試みる。でっち上げられた真理よりも、普段の生活の、何気ない関係が重要なのだと、説得するのである。だがその言葉は、当の本人からすれば、どうせ真理など存在しないのだから、みんなで慰め合って生きるしかないじゃないか、という風に聞こえるのかもしれない。そんなものは真理の探究に挫折した者が吐き捨てる弱者の言葉に過ぎないと彼は言うかもしれない。そうすれば彼の心はますます遠ざかるだろう。では、周囲の者はどうすべきなのだろう? 彼が行っている真理の探究もまた、それのために生を捧げられるような究極目的としての真理など存在しないということに耐えられない弱者の行為なのだと非難して改心してくれるなら苦労はないのだが。

 

どんな真理も、それがまったく真理ではない可能性があり得るという前提の上で初めて真理たり得る。だから、これこそが唯一正しいのだと言うとき、我々は実際にはそれが唯一正しいかのように振る舞っているに過ぎない。"真理" に囚われる彼に、君はどの「真理劇」を演じるのか選択することができる。そうすればそれこそが真理なのだ、と言って聞かせたら、彼は何と答えるだろうか。