徂徠メモ

荻生徂徠の道についての洞察は卓越している。

徂徠における道の本質は丸山真男も指摘する通り、治国平天下の政治性である。道とは、あくまで聖人がより良い統治のために創造したものに過ぎない。極端に言えば、この観念によってもたらされる結果が善であれば、観念それ自体が善であるかは問わないのである。それゆえ聖人は、あたかも観念自体が善であるかのように振る舞い、これを物語として語ることで、善なる結果の実現を目指す。

問題なのは、徂徠のこうした暴露によって、まさに彼が指摘した物語としての道の効力がもはや失われてしまうことである。この意味では、道徳としての道を疑わなかった仁斎や朱子学の方が、聖人の狙いを忠実に反映しているとも言える。

しかし、そもそも徂徠がそのような結論に至ることができたのは、透徹した歴史的、文献学的な探究の賜物である。これは「江戸払い」を経験した彼の江戸に対する鋭い客観的観察にも通ずるように思われる。徂徠の生涯に一貫するこうした洞察とその姿勢の意義は、現代においても色褪せない。