憲法の暴力性についての覚書

ある人は、他の人々が彼にたいし臣民たる態度をとるがゆえにのみ王である。ところが彼らは、彼が王であるがゆえに自分たちは臣民であると信ずる。(カール・マルクス資本論』第一巻、第一篇、第一章)

 

 上記のマルクスの言葉は、王が王であるためには、それに服従する臣民があらかじめ存在していなければならないと考えられる一方で、臣民は、あらかじめ王が存在することによってはじめて臣民たりうるという、王と臣民の間に存在する非合理的な緊張関係を述べたものである。この言葉には、王と臣民が互いを先天的な存在とみなし、自らの存立の根拠としていることで生じている矛盾が示されている。

 このような関係は、国民国家と人民の間にも見られる。国民国家が国家であるためには、人々への支配を正当化する憲法が必要である。そして、その憲法の成立の根拠は、人民の意志、すなわち民主主義に求められる。それゆえ、憲法は「個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限する」(芦部)ものと言われるのである。しかし一方で、憲法成立の根拠である人民の意志や、憲法が保護する対象である人民の権利は、まさに憲法によってはじめて成立すると言うことができる。このことから、国民国家、とりわけその憲法と人民の間には、マルクスの言う王と臣民との関係と同様に、非合理的な緊張関係が存在すると言える。

 しかしながら、国家と人民は対等な関係にあるわけではない。なぜなら、憲法を制定する権力は、無から有を生み出すという意味で常に暴力的であり、その根拠とされる人民の意志とは、かかる暴力を正当化するために生み出された、近代国民国家の神話とも言えるものだからである。言い換えれば、人民とは憲法が成立したその時点から正当化の根拠として用いられるものに過ぎず、憲法が成立する瞬間までは、その力を正当化する正義など存在しない。一方で、人民の成立は憲法に完全に依存し、無からいきなり生じることはありえない。憲法によってはじめて一義的な「正義」が定まるのであるから、仮に国家が人民の権利を完全に蹂躙するとすれば、そのような権利はなかったことになるだけである。この意味で、国家と人民の関係には、非対称性が見られるのである。

 こうした主張に対しては、人民の抵抗権を根拠にした反論が想定される。すなわち人民の側には、もはや人民の意志を果たさなくなった憲法を廃し、新たな憲法を定立する権利が与えられており、したがって国家と人民は対等であるという主張が考えられるのである。しかし、憲法を廃するという意味での抵抗権は、実際には保障されるべき何らかの権利ではありえない。というのも、そのような憲法刷新の力は新たな憲法制定権力=暴力であり、それゆえいかなる正当性が担保されているわけでも、また担保される必要もないからである。したがって、抵抗権を行使する者はもはや人民の範疇を逸脱しているのであり、逆に人民がその範疇に留まる限りは、憲法の非対称的な暴力性を不可避なものとして是認するほかないのである。