思想

私は思想をしまう場所を持っている。特定のものに触れると特定の思想が想起されるようになっているのだ。例えばキースの音楽、晩夏の雨、照りつける日差しとコンクリートそれから破れたフェンス。思想は場所から芽を出したわけではなく、それはあくまで置き場所に過ぎない。また思想と言っても非常に断片的で、他人に通じる形でまとまったものではない。だから私はこれらの思想をむやみに人に共有することを避けるようになった。近頃はただ一人、思想がしまわれている場所に触れるたび、それらを大事に育てているのみである。

 

ところがお菓子のかけらのまじったひと口が口蓋にふれたとたん、私は身震いし、内部で尋常ならざることがおこっているのに気づいた。えもいわれぬ快感が私のなかに入りこみ、それだけがぽつんと存在して原因はわからない。その快感のおかげで、たちまち私には人生の有為転変などどうでもよくなり、人生の災禍も無害なものに感じられ、人生の短さも錯覚に思えたが、それは恋心の作用と同じで、私自身が貴重なエッセンスで充たされていたからである。というよりこのエッセンスは、私のうちにあるのではなく、私自身なのだ。(『失われた時を求めて』吉川訳、コンブレー1 p.111)

 

もとより思想のなかには、エネルギーに満ちたものだけではなく、きわめて静的な想起もある。例えばちょうど今の時期は、身体が空洞になり、この静かな空のすぐ隣に死がいるかのように感じることがある。しかし私はそれを十全に伝える術をもっていない。プルーストの類いまれなる比喩をもって表現される感性は、彼のそれに共感する者ほど、その豊かさにただひれ伏すしかないと思わされるものである。

 

一見別のもののように見えるあれとこれとは同じであるとか、こういう点が似ているとか指摘できる力は、芸術の根幹をなす比喩の力であり、したがってこれは芸術的な才能であると言っても良さそうだ。むろんこうした才能は学問において必要とされることもあるが、例えば歴史研究に特にその傾向があるように、学問ではあれとこれとは別であるということを指摘する視座の方が重要なことも多い。そうであるとすれば、一見社会的意義を持つ、すなわち役に立つ才能は後者であるように思われる。

しかし実際には、前者の芸術的な才能の方が、少なくとも社会を生きるには役に立つようだ。ついこの間までしていた就活でも、ロクな取り柄もガクチカもない私が、この芸術的な才能を人よりわずかに多く持っているとみなされたことで評価されたことが印象的だった。そんなにあれとこれが似ていると言える人物をどの組織も求めているのであれば、芸術をもっと重んじれば良いと思うのだが。

プルーストが強迫的で、また分裂的な性質をもった人物であったことは、私には明らかだ。彼はこれを発散させ、自身の豊かな芸術的才能を結び付けて作品に昇華させたが、世の中にはこれをむしろ飼い慣らして活力にし、社会を渡り歩く者も多いのだろう。