セカイ系の意義など

庵野秀明紫綬褒章を受章したということで、久しぶりに『新世紀エヴァンゲリオン』を観た。

本作は登場人物の抱える個人的な困難と世界の危機という壮大なテーマとが結びついている、セカイ系と呼ばれるジャンルの先駆けとして知られるもので、いわゆる通常のロボットアニメとは一線を画す独特の重みをもった名作である。1995年にアニメが開始し、ついこの間新劇場版が完結したというのだから、本作にどれだけ多くのファンがいるかは想像に難くない。葛藤のシーンに流れる妙にスピリチュアルな音楽とか、旧劇場版の素朴だが整った作画とか、細かな部分に目を向ければ話題は尽きない。しかし最近これについて友人と話をしたら、ファンの間でさえ、作品の極めて重要な部分に関する認識に齟齬があることに気が付いた。そこでここではエヴァンゲリオンのごく基本的な部分について私が考えていたことを書き留めておくことにする。

 

何よりもまず確認しなければならない点。旧劇のラストシーンでシンジに首を絞められたアスカが「気持ち悪い」と呟いた意味は何か? サードインパクトの結果、人類が生命のスープへと還った地球で、浜辺にヒトの形を保ったまま取り残されたシンジは、同じく取り残され、傍で横たわっていたアスカの首を絞める。アスカが首を絞められたままシンジの頬を撫でると、シンジは手を放し、すすり泣く。それを見たアスカが、引きの画で「気持ち悪い」と小さく発し、物語は幕を閉じる。

この印象深いラストシーンは、その発言の真意をめぐってかなりの議論を巻き起こしたようである。しかし本作全体で一貫していたテーマを考えれば、その意図は明らかだ。つまり、他者がいるとはどのようなことか、という問いに対する庵野の答えが、ラストシーンに要約されているのである。

ゼーレの目的が何であれ、人類補完計画は人間一人一人にとって、他者を失うという意味を持っていた。補完によって人間は自分と他人の境目を失い、もはや「他人の恐怖」に苦しむ必要がなくなるのである。それはシンジや他のすべての登場人物にとって、救いとなる側面があった。このことは彼らが様々な他者との関係に苦悩するシーンがよく描かれていることからも明らかだ。

しかし一方で、彼らが他者との関係を通じて、そのために生きてもいいと思えるような真実を得たことも事実だろう。件のラストシーンの直前、シンジが精神世界で発した「でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは、本当だと思うから」という台詞は、これまで人を傷つけることや人から傷つけられることを恐れていたシンジが、それ以上に真実としか思えない結論にたどり着き、悟りを開いたことを示唆する決定的な言葉なのだ(ちなみに漫画では、同様の言葉が精神世界上の綾波に対して向けられる。これは綾波との恋愛描写がやや強い漫画版ならではだが、程よい改変だと思う)。

シンジは物語の最後に、ついにこの境地に達する。しかし重要なのは、それを悟ったからといって「他人の恐怖」を克服することができるわけではないということだ。悟りによっては、彼の世界は何も変わらない。世界を180度ひっくり返した後にもう一度ひっくり返すようにして、彼はまたスタート地点に立っただけなのである。

庵野はおそらく、シンジが他者と生きることを選択したことで一つ大人になった、というような締めくくり方を望まなかったのだろう。それがどんなに他者の愛や温もりといった出会いを含むとしても、他者と生きることは、根本的には傷つけ、傷つけられることを免れ得ない。シンジが首を絞め、アスカが頬を撫で、泣き出すシンジを見て「気持ち悪い」と呟く。この一連の描写は、他者との間で不可避的に生じる関係の調和や違和をそのまま表しているのである。したがって、あのシーンにおいては「気持ち悪い」という言葉だけが別段深い意味を持っているわけではない。そこに至るまでの描写と同じように、彼が選択した、他者がいる世界とはどのようなものであるかを暗に示しているにすぎないのである。

 

では、なぜシンジとアスカなのか? それは偶然と言うほかない。シンジにとってアスカのみが特別な存在だったとも思えない。彼にとってはレイもミサトもカヲルも、愛憎の程度や中身に違いこそあれ、等しく他者であることに変わりはないのである。実際、彼の精神世界においては、アスカのみならず主要な女性キャラクターのイメージが想起されているし、カヲルとの親密さにも、友情とは異なる関係を示唆するものがある。とどのつまり、誰でも良かったのだ。

ここに、シンジのエゴイズムを読み取ることができる。彼と他のキャラクターとの関係は、どれも極めて曖昧である。彼は様々な状況において、不安や寂しさを埋めるために他者を欲する。こうした彼の態度は、旧劇場版の精神世界において、アスカの「あなた他人のことには興味ないもの」という言葉によって糾弾される。

しかしエゴイズムは、何もシンジに限って見られるわけではない。本作の登場人物全員に当てはまるものだろう。アスカの「あんたが全部私のものにならないなら、私何もいらない」という台詞は、まさに彼女のエゴイズムを表している。ミサトと加持でさえ、単なる恋愛関係にある(あった)のではないことは、作中でも語られている。すなわちミサトは憎んでもいたはずの父の姿を加持に見出し、その不在を埋めるために関係を持っていたと告白するし、一方の加持は、飄々としていて愛想の良さが描かれつつも、背後には常に独立した自らの行動原理を持っている。そのシビアな職務とは対照的にスイカを育て、またそれこそが最も重要なことであるかのように振る舞う一面を持っているのも、彼のエゴイズムをよく表していることは言うまでもない。少なくともミサトは、こうした彼の人間性を的確に見抜いていたように思える。またリツコも、失恋の末にNERVの施設ごとゲンドウとの心中を試み、同じく彼を愛した母ナオコに裏切られる。そしてゲンドウは、初号機に取り込まれた妻にもう一度会うために人類を巻き込もうとする一方で、息子を傷つけ、また息子に傷つけられることを、息子と同じように恐れている。そんな彼の計画を、レイは最後の最後で突き崩す。

作品を通して一貫しているのは、まず各々が有しているエゴイズムに焦点が当てられ、そこからそれぞれの関係が導かれる、という描かれ方である。そのため、関係の根底には常に自分と他者という構図が存在し、親子であれ男女であれ友であれ、それ以外の関係性と呼べるものはさしたる意味を持たない。作品が強調していたのは、こうしたキャラクター同士のカオスな関係性であったように思う。一つ一つ取り上げることはしないが、新劇場版でそれらが小綺麗なものに整理されてしまったのは残念なことだ。まして、『シン・エヴァンゲリオン』でゲンドウが彼にとってどれだけ妻が大切な存在であったか語る描写など、まったく必要なかったはずである。

余談だが、『エヴァ』における他者との関係性に比べて、宮崎駿の描く他者はなんと素直なことだろう。例えば、『天空の城ラピュタ』のパズーとシータは、互いの存在が互いの行動原理を形成している。そこには、他者がいなければ自分もいないという、友情や恋愛以前の素直な他者との関係が現れている。『エヴァ』とは真逆の部分を強調しているようにも思うが、私はこのような描き方もまた、とても好きだ。人間は本来素直に生きることしかできないから(それゆえ『エヴァ』はいわば禁忌を犯しているとも言える)、『ラピュタ』の描き方は真理を突いている。

 

しかし、彼らのエゴイズムはみな同じように描かれているわけではない。それはときに大人の事情とか、世界の事情といった姿で現れる。例えば、第一話でゲンドウやミサトやリツコがシンジに対しエヴァに乗るよう迫ったのは、彼らのエゴイズムを踏まえれば、単に世界を救うという使命感からではないことは明らかだ。それにもかかわらず、それらはシンジに決断を迫る段階になると、常に世界の危機との対峙という形で現れるようになっているのである。しかしだからといって、彼らは別に自分の目的のために世界を持ち出すような方便を使っているわけではない。そうではなく、彼らのエゴイズムは、それぞれの仕方で実際に世界の存亡と繋がっているのである。本作のキャラクターは、実は誰も世界のあり方になど興味はない。みんな、自分の話をしているに過ぎないのだ。ただそれが誰かに向けて話されると、世界の話のように聞こえるだけなのである。だから誰かが世界に対しコミットしたとしても、それは単に結果としてそうなったに過ぎない。

しかし子供は、しばしばこの自分と世界とが貼り付いているという事実を知らないがゆえに困惑する。シンジやアスカは、エヴァに乗る意味を求め続けた。自分の存在意義とかいうものを、自分を超えた存在に委ねることで、自らの価値を担保したがったのである。いわば彼らは、世界しかないと思い込んでいた。

だが、それもまたエゴイズムなのである。誰かのために乗るのか、それとも自分のために乗るのかということは、本当はどちらでも変わらないのだ。そのことを知ったうえで、どれか一つを決断しているということが、人間であるということなのである。そしてまた、エゴイズムをエゴイズムと呼ぶことも、実は世界の側に立ったうえではじめて可能になることなのだ。

思えばシンジに降りかかる言葉や自らに語り掛ける言葉は、すべてがこのことに気がつくのを妨げるものだった。いや正確には、言葉とは常にそのような性質を帯びるものなのである。自分のためにエヴァに乗るとか、人間は弱いから互いに補完し合うとか、あるいは互いにわかりあえるかもしれないという希望でさえ、すべて世界の都合に過ぎない。世界に対する「僕はここにいてもいいの?」という問いかけは、無意味なのだ。「もう一度会いたいと思った」というそのことだけが、彼にとっては真実なのである。そのエゴイズムこそが、世界を左右する。だから彼がそう望んだ以上、物語の終幕の後、世界には他者が戻ってゆくはずである。

そしてその世界は、別に楽しいものでも苦しいものでもない。あの終幕は、庵野がそのことを視聴者に、そして何より庵野自身に戒めるためのものであったに違いない。逆に、アニメ版の最後で語られた、他者が決めた価値に捉われず、見方を変えれば違う世界が開ける、という結論は、心理学的なアドバイス以上の意味を持たない。他者が決めていようといまいと、自分にとって見える世界は常に変わらないのである。

 

エゴイズムと世界の不断の結びつきのもと描かれた本作だが、その中で私が最も好きなシーンは、サードインパクトのときに伊吹マヤがリツコの幻影を見て、恍惚の表情を浮かべながら液体へ還る場面だ。このシーンこそ、セカイ系というジャンルの唯一の存在意義と言えるだろう(多くの「セカイ系」と呼ばれるアニメは、世界のこうした構造に目を向けず、単に主人公ないしヒロインが世界の命運を握るメロドラマないし悲劇に成り下がっている)。彼女は世界の終わりによって、まさに彼女が最も望んでいた人から、最も求めていた言葉を手に入れたのである。I NEED YOU. とは、言い訳のきかない、ただそうであることを伝えるだけの言葉だ。しかし、本当はどんな言葉も同じように、ただそうあるだけなのである。

 

それにしても、世界が終わりかけているのに、それを何となく察している人たちもみんなやけに明るいのが気になる。もしかしたら自分たちも同じかもしれない。政治や経済のシステムも、よくみると穴が開き過ぎていて、それでも生きてはいるから。