隙/恐怖

アメリカにいたときかその後くらいから、人が話すこと、主張する内容の「隙」を見るようになったような気がする。

どんなに厳密に構築された主張にも必ず「隙」がある。それはゲームのルールが何なのかを把握し、そのルールがなかったら?と考えるような思考だと直観している。つまりルールがいかにしっかりしていても、そのゲームがそのルールに従っている以上、ルールがなかったときのことに関してそのゲームの範疇では何も言うことができない。それが「隙」の意味するところだ。

 

恐怖はこのことをよく教えてくれる。

ある日私は、恐怖を克服したいと考えた。恐怖を感じないためにはどうすればよいのだろう? 

我々はわからないものを怖がる。自分が立っているもの、言葉とか社会とか、本当は何もわかっていない。何の上に立っているかわからないということは、それだけの恐怖が襲いかかってくる可能性を常に秘めているということだ。これらを本当にわかっているなら、恐れることなどないはずだ。例えば他者が自分のようにわかったら? 死ぬことが生きることのようにわかったら? 未来が今のようにわかったら?

※しかし、「わかる」とは何を意味するのだろう。あるものが何なのか本当にわかれば実践もできるというような、そんなものだろうか。もちろん多くの場合わからないまま実践ができてしまうはずだが。例えばラマヌジャンのような数学者や、多くの政治家のように。

わかっているものなら受け入れるだけだ。わかっているものは変わらない(つまりわかっているものとは真理だ)。

しかし不思議なことに、わかっていると思った瞬間が、わかっていないものが策定されてくる瞬間でもあるのだ。例えば大丈夫だ、という枠組みには大丈夫ではない事実との向き合い方が用意されてない。人間は「Aである」と言う以上、「Aではない」を放棄しているのだが、それを自覚することはできない。できたという人がいたとしたら、その人物はもう「Aである」の立場には立っていないはずだ。

恐怖というのは、そういうスキをついてくる。人間が認識してないところから常に働きかけてくる。だから怖い。たとえそこに恐怖があることを認識したとしても、その認識によって認識していない恐怖の可能性が新たに生まれることになる。恐怖とは、恐怖するときにはすでに恐怖してしまっているのであって、その時点で思いつく限りの恐怖を克服したからといって、その外側にある恐怖の可能性を排除することはできないのだ。

じゃあ、どうすればいいんだ?

認識と向き合い続けること。もし恐怖が認識に表出してきたら、恐怖していることを認識する。それはもう恐怖ではなくなる。

大事なのは、恐怖が実際に来たとき恐怖するだろうということをわかっていることだ。起きていることは起きていて、それ以上の意味を持たない。恐怖を自分の弱さとか、現状の不安なこととかに結びつけるべきではない。

結局のところ恐怖は、システム的にはいかようにも解釈できるけども、恐怖でしかない。恐怖は、恐怖とはこういうものだと決めた瞬間からその外に発現してくるものだ。

悟りを開いた人間は死の恐怖を感じないとか言われる。だけど、多分それは悟りではない。人間はそういうものを求めてそうなれないことを繰り返している。もし恐怖を感じなくなったと確信する人がいるとしたら、その人はきっと何が(どれが)恐怖なのかわからなくなってしまったのだろう。

 

あるを決めることは別にないを決めることではない。「ある」と「あるのではない」は両立し得ないが、何かをあるとしたとき、そこに策定されなかったものは常にあるの方向へ向いているし、あるものはあるのではない方向に向かっている。そうだとしたら、なぜすべてはなっているのに、自分だけあるでしか生きられないのだろう。

 

最近、あるゲームの「隙」を指摘して「これはゲームに過ぎない」と鬼の首を取ったように批判する人をよく見るが、そういう人は大抵の場合、当の本人もゲームをしてしまっていることに気がついていないように思う。ゲームの「隙」を把握すること、すなわちルールを把握することは、ゲームの欠点を指摘することではない。単にそのゲームを構築することも破壊することもできる状態になるということに過ぎないのである。このことにまで考えが至らない中途半端で鈍い感性を持つ人間と付き合うくらいなら、それがゲームであることを知らずに上手くプレイすることができる者と付き合う方がずっと面白い、というのが私の持論だ。

 

思えば私はこの隙/恐怖をめぐって展開される考えの周りを回り続けているような気がする。このことの重大さを話しても、多くの人は「そんなの当たり前じゃないか」で終わってしまうのかもしれないが。