注釈的態度

「学生と話していると、今の若い人がどれほど禁欲的に他者の内面に踏み込むことを悪と感じ、忌避しているかがわかって驚くことがある。」

との投稿を見かける。

私も同年代の人と話していると、私としては何も思わないような言い回しでものを言った後に、慌てて相手の誤解を招かないよう注釈?を付け加えるような話し方をされることがよくある。彼らの態度からは、自分の言葉で他者が傷つかないよう、細心の注意を払っているという印象を強く受ける。

だが、言葉というのは気を遣って用いさえすれば他者を傷つけなくなるといった性質のものではない。言葉を発するということ自体に、副次的なものではあるにしても、他者を傷つけ得るという性格が内包されている。そういった苦しみもまた引き受けることが、発話するということなのである。

だから私は、彼らの注釈的態度にはいくらか欺瞞的なものを読み取る。そうやって注釈を付せば他者に対し十分に倫理的責任を果たすことができ、また発話の苦しみをも手放すことができると思い込んでいるような印象を受けるのである。

もっとも、注釈を付すことで責任を果たすことができるわけではないからといって、諦めて他者に対し気を遣うことを放棄すべきだというわけではない。重要なのは、この発話の不可避的な性質を自覚していることだ。

 

投稿の主はこうした傾向と、ヒット映画において描かれた「マイナーな趣味を介して男女が一切の暴力性を無縁に通じ合い、心と体がつながるという奇跡のような事態」が好まれることとは無関係ではないと見る。それはおそらく正しいだろうが、しかしそうであるとすれば、その傾向は別にここ数年で突然湧いて出て来たわけではないだろう。例えば、『エヴァ』で庵野が夢想したゲンドウとユイの関係性などは、まさにそのようなものであったはずだ。

昔は現実世界に非常に小さな位置を占めるのみだったオタクないしインターネット特有の振る舞いや言葉が段々とリアルな世界を侵食するのに比例して、こうした恋愛観もまた現実世界で広く支持されるようになったのだろうか。