モンクと狂気

セロニアス・モンクを聴きたくなるのはいつも、決まって狂気に犯されているときだ。

誰しもが自らの内に狂気を飼っている。狂気は人の数だけ多様な形を持って存在しているはずだが、私の場合、とりわけ強く意識されることの多い狂気がいくつかある。そのうちの一つが、自己の役割の多元性に由来するものである。

我々は通常、自分の多重的・多元的な価値関心をそれほど意識せずに生活していることが多い。それゆえ、状況に応じてその中から特定の価値を、自らを規定する唯一の要素としてその都度打ち出している。しかしながら同時に、まさにこの多重性ゆえに、心の中ではそれと相対立する価値を称揚している、ということがあり得る。そしてたとえ、そのような対立を打ち消したいがために「ああは言ったが実はこうでもあるのだ」と言い訳がましく述べたところで、それは対立の解消になんら与することはない。それぞれの価値は、それらが立脚する観点からして根本的に異なるからである。また、そのように言明された価値と相容れないような価値が再び心に浮かび上がってくることもある。我々は、自己の内に持っている様々な価値を統一することができないまま、社会において多重的な役割を引き受けているのである。かくして多くの場合、「言いたいこと」を言い尽くせぬまま、葛藤に陥ることとなる。狂気が顔を覗かせるのはこのときだ。

 

モンクの演奏は、そのような価値の多重性、狂気を体現したものと言えるであろう。特徴的であるかわいらしい旋律と拙い運指、そして強く打ち込むような音色は、子供のような純粋さをもった彼の美学を表現したものに違いない。≪Solo Monk≫収録の「I'm Confessin'(Take1)」などはその最たる例と言える。しかし一方で、こうした純粋さにあえて陰りをもたらすような、極めて独特な和音の響かせ方も、彼の演奏に不可欠な要素である。相対立するような美が一つの演奏の中に織り交ぜられているところに、モンクの魅力がある。

なぜモンクはこのような演奏スタイルを選択したのか? 私見では、彼はこうしたスタイルを選択せざるを得なかった。彼の引き受けている価値の多元性と、それに引き裂かれそうな自己の葛藤をそのまま表現することこそが、モンクにとって最大の美だったからである。

モンクが子供らしい「かわいさ」にある種の執念を持っていたことは、私には明らかだ。しかし、これを弾いている彼は現に子供ではない。どれだけ子供らしさを美しいと思っても、実際に子供になれるわけではないのである。そもそもそのような「子供らしさ」とは、大人が作り出したものではないだろうか。子供が大人よりも遥かに残虐な存在であることは、子供を経験した者なら誰もが知っていることだ。

こうした子供らしさという美と相対立する自らの役割が、刺すような、どこか恐ろしい和音を彼に打ち込ませるのである。あの子供らしい旋律は、音が発せられた瞬間から、すべて嘘であるかもしれないという疑念をもって彼に襲い掛かる。彼の一つの美を打ち消すような、別の観点に依拠する美を体現しているのが、あの和音なのだ。矛盾した二つの美が併存しているところにこそ彼の葛藤が表現されているのであり、この点こそ彼の演奏の魅力の本質なのである。

モンクの演奏は、彼が言い尽くせない二つの美的価値を言おうと苦闘して生まれたものなのではないか。その意味で、彼の演奏は彼の狂気の表現なのである。だからこそ、私のもとに狂気が現れ出てきたときにモンクを聴くことは、私にとって大きな意味を持つ。それはなんら私の葛藤を解決してくれるものではない。しかし類いまれなる才能と繊細さをもって表現された彼の狂気は、ただひたすらに私の狂気に寄り添ってくれるのだ。

 

ただ一つ、モンクの難点を挙げるのであれば、あまりにあざとすぎると言い得ることだろう。狂気が狂気である所以は、多重的な価値が言い尽くせないという事実にある。そうであればその事実は、言い尽くされないということによって表現されなければならない。それにもかかわらず、彼の狂気は、その才能をもって演奏の中に十全に表現されてしまっている。彼は相対立する二つの美のみならず、それらによって生じた葛藤をも演奏のうちに込めている。彼はまさにその才能によって自らの葛藤を殺してしまっているのである。それは差し当たり、スクリーンに写され平面的に加工された葛藤と言うべきものだ。

モンクはこのことを、痛いほど理解していたのかもしれない。彼の美が立脚する多重的な価値の矛盾的関係が生み出す狂気は、その葛藤までが演奏の内に込められてしまっては、もはや解消されてしまう。葛藤を生んだ狂気は、葛藤の表現を前にしては、醒めるほかないのである。だからこそ先の「I'm Confessin'(Take1)」の最後のテーマは、子供らしさも鋭い和音ももはや失われ、穏やかに歌われなければならなかったのではないだろうか。

 

最晩年のモンクの演奏には、狂気がもたらす霊力は失われてしまっているように感じる。その理由は定かではないが、この時期彼が双極性障害と診断されたことと無関係ではないのかもしれない。病は快癒してこそ、芸術に意味をもたらす。病の只中にいる者は、自らの内に存在する多元的な価値を見失い、特定の観点に縛られることになる。それゆえ双極性障害は、彼から狂気を失わせるものだったのではないだろうか。とはいえ私はそれが不幸なことであったとは言わない。病を患った彼にとっては、その病から見える一元的な価値を表現することが、彼にとっての芸術だったのであろうからである。