生音

生の演奏に勝るものはない、というのは、多くの音楽好きが同意するところだろう。もっと言えば、生音で、つまり機材を使って増幅したのでない自然の音で演奏される音楽を聴くことは、何にも代えがたい体験である。生音の至高性を理解しない音楽ファンの言うことを私は信用しない。

生音による演奏の魅力を語ることは難しい。誰が言っても同じようなものになってしまうからだ。しかしあえて言うのであれば、演奏者から発せられる音のリアリティを全身で受け止めること、これが生音で聴くことの最大の意義に他ならない。迫力という言葉には到底収まりきらないような、作曲家とそれに向き合う演奏者から生まれる音楽の圧倒的な説得力は、他のあらゆる形式ではおよそ味わうことのできない体験をもたらしてくれるのだ。

残念なことに、現代において生音で聴ける音楽はそもそも非常に少ない。クラシックとジャズ、そして弾き語りくらいのものではないだろうか(いわゆる民族音楽はここに含めるべきではないだろう)。もとより50~70年代を中心にそれ以降のロックも愛聴し、また演奏してきた者としては、アンプやその他技術的な工夫が必須のこれらの音楽の魅力を否定することはできない。しかし振り返ってみれば、私がこれまで得て来た音楽体験の中で、自分にとって真に深い意味を持っている数少ないものは、ほとんどが上の三つの音楽の演奏を実際に聴いたときのものなのである。

そうした体験の価値は、必ずしも演奏そのもののみによって規定されるのではなく、自分がそのとき置かれていた環境・状況にも大きく左右される。かつて路上演奏の旅の一環でコペンハーゲンを訪れた際、デンマークという国や文化をほとんど知らず、人との付き合い方もわからないまま街を歩き、おまけに誤って無賃乗車をしてしまい(このとき咎めてきた駅員は優しかったが)、不安に苛まれたことがあった。しかし、その夜立ち寄ったジャズクラブで聴いたLars Danielssonの、この上なくオプティミスティックである一方で、一秒後には燃え尽きているのではないかと感じさせるような音楽に心を打たれ、救われた気持ちになったのだ。

ライブ終了後、Lars Danielssonに感動したことを伝えに行くと、控室に通してくれ、他のメンバーとも話すことができた。彼らはとてもあたたかく、また謙虚だった。そこで私は北欧の何たるかを合点したような気がした。客人を含めた公の場では英語を話し、より私的な場では各々の第一言語を用いる(驚いたことに、家があるのかないのかわからないようなおじさん(最終的に彼のものかもわからない自転車を鍵を引きちぎって乗り去っていった)とも英語でコミュニケーションを取ることができる)という彼らの言語文化が示しているのかもしれないが、そこには例えば世界の文化的中心であるパリの人々が決して持たないような、畏怖を感じるほどのしたたかさがある。少なくとも私はその旅で、コペンハーゲンや後に訪れたオスロをそのような視座で見た。音楽体験はかくも豊かに、聴き手の個人的な文脈や演奏場所の文化的背景と結びつくものでもあるのである。

 

思えば私の師匠はCDの音を嫌っていた。音が細かく分解されていて気持ち悪いのだそうだ(たしか小澤征爾も似たようなことを言っていた)。実際、録音を聴くならCDよりレコードやカセットテープの方が優れているだろう。生音で聴くことを前提とした音楽なら尚更だ。しかし、録音は所詮、録音でしかない。さる批評家も言ったように、それは多くの場合、優れた演奏体験の再現という副次的な役割を免れ得ないのである。無論、この場に立ち会っていればどんなに良かったか!と思う録音も、たしかに存在はするのだが。

隙/恐怖

アメリカにいたときかその後くらいから、人が話すこと、主張する内容の「隙」を見るようになったような気がする。

どんなに厳密に構築された主張にも必ず「隙」がある。それはゲームのルールが何なのかを把握し、そのルールがなかったら?と考えるような思考だと直観している。つまりルールがいかにしっかりしていても、そのゲームがそのルールに従っている以上、ルールがなかったときのことに関してそのゲームの範疇では何も言うことができない。それが「隙」の意味するところだ。

 

恐怖はこのことをよく教えてくれる。

ある日私は、恐怖を克服したいと考えた。恐怖を感じないためにはどうすればよいのだろう? 

我々はわからないものを怖がる。自分が立っているもの、言葉とか社会とか、本当は何もわかっていない。何の上に立っているかわからないということは、それだけの恐怖が襲いかかってくる可能性を常に秘めているということだ。これらを本当にわかっているなら、恐れることなどないはずだ。例えば他者が自分のようにわかったら? 死ぬことが生きることのようにわかったら? 未来が今のようにわかったら?

※しかし、「わかる」とは何を意味するのだろう。あるものが何なのか本当にわかれば実践もできるというような、そんなものだろうか。もちろん多くの場合わからないまま実践ができてしまうはずだが。例えばラマヌジャンのような数学者や、多くの政治家のように。

わかっているものなら受け入れるだけだ。わかっているものは変わらない(つまりわかっているものとは真理だ)。

しかし不思議なことに、わかっていると思った瞬間が、わかっていないものが策定されてくる瞬間でもあるのだ。例えば大丈夫だ、という枠組みには大丈夫ではない事実との向き合い方が用意されてない。人間は「Aである」と言う以上、「Aではない」を放棄しているのだが、それを自覚することはできない。できたという人がいたとしたら、その人物はもう「Aである」の立場には立っていないはずだ。

恐怖というのは、そういうスキをついてくる。人間が認識してないところから常に働きかけてくる。だから怖い。たとえそこに恐怖があることを認識したとしても、その認識によって認識していない恐怖の可能性が新たに生まれることになる。恐怖とは、恐怖するときにはすでに恐怖してしまっているのであって、その時点で思いつく限りの恐怖を克服したからといって、その外側にある恐怖の可能性を排除することはできないのだ。

じゃあ、どうすればいいんだ?

認識と向き合い続けること。もし恐怖が認識に表出してきたら、恐怖していることを認識する。それはもう恐怖ではなくなる。

大事なのは、恐怖が実際に来たとき恐怖するだろうということをわかっていることだ。起きていることは起きていて、それ以上の意味を持たない。恐怖を自分の弱さとか、現状の不安なこととかに結びつけるべきではない。

結局のところ恐怖は、システム的にはいかようにも解釈できるけども、恐怖でしかない。恐怖は、恐怖とはこういうものだと決めた瞬間からその外に発現してくるものだ。

悟りを開いた人間は死の恐怖を感じないとか言われる。だけど、多分それは悟りではない。人間はそういうものを求めてそうなれないことを繰り返している。もし恐怖を感じなくなったと確信する人がいるとしたら、その人はきっと何が(どれが)恐怖なのかわからなくなってしまったのだろう。

 

あるを決めることは別にないを決めることではない。「ある」と「あるのではない」は両立し得ないが、何かをあるとしたとき、そこに策定されなかったものは常にあるの方向へ向いているし、あるものはあるのではない方向に向かっている。そうだとしたら、なぜすべてはなっているのに、自分だけあるでしか生きられないのだろう。

 

最近、あるゲームの「隙」を指摘して「これはゲームに過ぎない」と鬼の首を取ったように批判する人をよく見るが、そういう人は大抵の場合、当の本人もゲームをしてしまっていることに気がついていないように思う。ゲームの「隙」を把握すること、すなわちルールを把握することは、ゲームの欠点を指摘することではない。単にそのゲームを構築することも破壊することもできる状態になるということに過ぎないのである。このことにまで考えが至らない中途半端で鈍い感性を持つ人間と付き合うくらいなら、それがゲームであることを知らずに上手くプレイすることができる者と付き合う方がずっと面白い、というのが私の持論だ。

 

思えば私はこの隙/恐怖をめぐって展開される考えの周りを回り続けているような気がする。このことの重大さを話しても、多くの人は「そんなの当たり前じゃないか」で終わってしまうのかもしれないが。

神と人間について

キリストの思い違い。——キリスト教の開祖は、人間は何にもまして深くその罪に悩むものだ、と考えた、——それはキリストの思い違いだった、自分を罪がないと感じた者、この点での経験に乏しかった者の思い違いだった! 彼の心はあの不思議な幻想的な憐憫に充たされた、だがこの憐憫は、罪の案出者たる彼の民族にあってさえ大きな憂苦となることなど滅多になかったような憂苦に向けられていた! ——しかしキリスト教徒は、自分らの宗祖の言行を後から正しいものと認め、その思い違いを「真理」として神聖化するすべを心得ていた。(『悦ばしき知識』箴言138)

 

神とは何か?

信仰する宗教を持たない私にとって、神はそれほど身近な存在ではない。しかし人々の営みの中に神の片鱗を見ることはある。それは人間が「人間」を外れているときによく現れる。

松本大洋の描く白痴的な子供は神に近い。『鉄コン筋クリート』のシロや『Sunny』の子供たちなど、松本はこの手の神々しい人間を描くことに非常に長けている。彼らは「人間」からすればまったく不完全な「子供」に過ぎない。社会の生き方をロクに知らず、人間の都合の良いように利用され、振り回される哀れな存在。しかし実際にすべてを見透かしているのはむしろ彼らのほうなのだ。彼らには大人が勝手に抱く「子供」の純粋さのようなイメージとは決定的に異なる、グロテスクなまでの白さがある。

「あの子(シロ)はお前が考えてるよりずっと強い。」

「そして、お前さん(クロ)は自分で思っとる程たくましくはないぞ。」

「ワシの目には、今までずっとお前がシロに守られてきとるように映るが、違うか?」

クロはこの「じっちゃ」の言葉を否定しない。というのも、彼もまた理解しているのだ。シロは自分の生の外に別の生の可能性が開かれていることを知らない。彼にとっては彼の世界がすべてなのである。そしてそうあることは人間には到底達し得ない、超人的な領域なのだ。逆に考えれば、生の外へ開かれた展望を獲得することで、我々は人間に堕落するのかもしれない。

一方でイタチは、「世の中には善も悪もねえ。」「あるのは真実だけだ。」とクロに語りかける。彼にとってはすべての展望は等しく、そこには一つとして特別なものはない。だから自分の生と別の可能的な生にも差異がない。この意味でシロとイタチは対照的な存在ではあるが、同時に同じ根を持つ存在でもある。複数ある展望の中に一つ特別なものがある、という人間的な見方を持つことがないからだ。二人は線分の端と端に位置していながらも、それを丸めるとちょうど重なるような関係にある。

 

松本人志高須光聖の『放送室』第281回にも、似たような話が取り上げられている(ちなみに、同じ回でされている「品」の話もとても面白い。この回は松本の言っていることを高須がよく理解していないところが多あり、あまり話が噛みあわないまま主旨がずれていってしまったりするのが少し残念だが)。

松本は「働くおっさん劇場」の「野見さん(野見隆明)」を「神様みたいな人」と形容する。彼は一見して普通の人間ではないと思わせるような風貌に加え、そのパーソナリティの独特さから松本の目に留まったらしい。毎回、松本が与えたテーマに沿って何かにチャレンジし、その奇行で笑いを巻き起こす、という型がある。

「野見さん」が白痴的な人物であることは明らかだ。笑いがどうあれ常識から外れた何かを源泉として生まれるものだとすれば、笑いを生む職人である芸人は、何が常識で何がそこから外れているかをある程度理解したうえで笑いを作り出す必要がある。ところが「野見さん」は、彼自身の振る舞いを面白いとか、笑いになるはずとはまったく考えていないはずだ。なぜなら、自らの展望から離れて笑いを構築する能力を彼は欠いているからである。だからこそ、彼にとって何でもない振る舞いが、それを展望の外側に立ち、常識から外れたものと見做すことができる者には笑えるのである。こうした笑いは、プロフェッショナルである芸人には決して生み出すことはできない。芸を披露する、笑わせるという意志が存在する時点で、純粋な白痴は失われてしまうのだ。

そのため、彼にその面白さに見合った十分な報酬を与えてしまえば、もはや面白さは失われるという高須の見解は正しい。彼の行動に何らかの価値があることを本人が認識し、そのように振る舞おうと思うようになった時点で、彼は自らの展望にもはや縛られなくなるからである。

 

上記二つは、白痴の神々しさが語られている例だが、こうした語り口は、常識ないし正常の側に立ち、当然に生の外への展望を持つ「人間」の立場からなされるものということになるだろう。しかし、「人間」の正常性とはそれほど自明なものなのだろうか? パゾリーニの『テオレマ』は、こうした疑問を、作品を通して的確に表現する。

同作は、ブルジョワ家庭のもとに一人の男が訪れ、生活を共にする場面から始まる。その後、家族の一人一人が、男と関係を持ったことを契機として奇行に走るようになる。

外面上は何の問題も抱えていないブルジョワ家族が崩壊してゆくというストーリーはしばしば、資本主義社会に対するアンチテーゼであると評される。しかし、パゾリーニの本来の意図にかかわらず、この作品が資本主義批判として解釈されなければならない理由はない。なぜなら本作が描くような社会規範や体裁の崩壊は、資本主義社会やブルジョワ家庭でなくても、「人間」が生活を営むところではどこでも起こり得るからである。

注目すべきは、家族は男がやってくる前からすでに狂っていたということだ。ここに「人間」の異常性を強調する作品の主題の片方を読み取ることができる。娘のオデッタが父パオロに向ける性愛の視線には、一家の狂気が巧みに示されている。その中にいる限り気がつかないだけで、いかなる社会的構築物にも、綻びは存在するのだ。男は彼らの狂気を解き放つきっかけを作った、いわば触媒にすぎない。

一家の奇行は、こうした異常な「人間」の営みからの解放として描かれる。子供の病を治すといった超能力を発揮し、人々から崇められるようになる家政婦はその最もわかりやすい例だが、他の家族についても、変化の本質は同じである。解放という観点から考えれば、パオロが駅で服を脱ぎ、荒涼とした砂地を駆けるシーンの高揚感もまた、これをよく表している。

こうした奇行の表現から、本作でパゾリーニが取り上げた主題のもう片方ももはや明らかだろう。それは「人間」から解き放たれた者が獲得する自由に他ならない。つまり、ブルジョワ一家は「人間」であることによって一義的な役割とか観点に縛り付けられていたのが、男の訪問によって解放されることとなったのだ。

彼の主題の取り上げ方は、『鉄コン筋クリート』や『放送室』とは逆に、白痴の自由を強調し、白痴は「人間」が持たない生の外への展望の獲得可能性に開かれていると主張していると理解できるようにも思われる。しかし、そのように考えることは必ずしも正しくない。なぜなら本作が浮き彫りにするのは、「人間」が複数の展望を持ち得る存在であるにもかかわらず、特定の一つの展望に拘束されざるを得ないという根本的な問題だからである。

そこに理由は決して与えられない。だから本来、なぜそれが正常であって異常ではないのかと問うこともできないのである。「人間」はひとまず与えられた展望を正常とみなし、そこから外れる者を異常であるとする。しかし実際には、正常が異常であることも、異常が正常であることもまったく可能なのだ。『テオレマ』はそうした「人間」が抱えざるを得ない根本的な問題を批判的に浮き彫りにしているのである。

 

同様の観点を持つ作品に、いがらしみきおによる『誰でもないところからの眺め』がある。同作は『テオレマ』に似て、震災を契機として人々の行動が徐々に狂っていくさまを描いている。「人間」の解体の象徴に性愛が用いられる点も似ている。

物語の序盤から、子供である由香や認知症の徘徊老人は「揺れ」に気が付いている。この「揺れ」は、「人間」が通常気付くことのない世界の根本的な不安定性に他ならない。我々人間はなぜ今のような世界に生きているのだろうか。我々の世界の当然さは、一体何に依拠しているのか? こうした問いが求める答えを手にすることはおそらくできない。何度繰り返されても規則と呼べないものが存在し得、また一度も起こらなくても規則と呼べるものが存在し得るのと同様である。

しかし、地震によって人々はこの当然さから解放された。自らがなぜか信じ、縛り付けられている「人間」の営みから自由になり、遊動民として、神として生きることになったのである。

そしてこうした世界の不安定性から最も遠い存在と言えるものに、国家がある。だからその安定性を担保する警察組織ないし警察官は、物語の終わりまで狂うことがなかったのだ。

「またでかい地震来るって言われてるけどみんな逃げませんよね」

「逃げらんないだろ」「家族とか仕事とか 自分捨てらんないだろ」

また警察とは逆の理由で、子供は最後まで言葉を失わない。子供ははじめから神なのである。

 

パゾリーニいがらしみきおは人間の本質を否定的に捉え、神の肩を持った。彼らの視点はユートピア的だ。そこには人間である限り決して到達し得ない領域への憧憬がある。

反対に、『鉄コン筋クリート』は人間の本質を肯定的に描いた。人間は他に多くの展望が存在し得るにもかかわらず、そのうちの一つに身を置かざるを得ない。クロは物語の最後にシロとイタチを飼い慣らすようことができるようになり、人間であることの意味を体得したのである。いわば神を内に含むことで人間は人間として成立するのだ。

ニーチェ永遠回帰を語るという行為は、人間によってしかなされ得ない。超人にとって、超人であることには語られるべき意味や価値などないだろう。また価値があるとしても、語られた瞬間にその価値は失われてしまうのだ。だからそれをあえて語ろうとすることは、人間によってなされなければならないのである。彼の思想の価値が理解されるのは超人の観点においてではなく、人間の観点においてに他ならない。

ニーチェは徹底的に神を擁護した思想家であるにもかかわらず、根本的にニヒリスト的素養を持っていたに違いない。だからこそ、僧侶をニヒリストに仕立てあげて批判したのだ。朔太郎は死に際のニーチェを描いて喋らせた。

「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」

この言葉が実際にニーチェから発せられたかどうかは重要でない。私にとってニーチェとはまさにこのような人物なのだ。神であるためには、自らのニヒリズムは隠蔽されなければならない。しかし逆説的に、この隠蔽こそが彼を人間たらしめているのである。なぜなら、本当の神は単にそのままで神だからだ。この死に際の言葉は、彼が人間であるがゆえの悲哀の現れなのだろう。

 

ちなみに同じ小文に出てくる芥川のように、どうせ死ぬのに、生きることに何の意味があるのだと問うことはあまり良いとは思わない。自分がいずれ死ぬことを知ると知らないとにかかわらず、また生きることに意味がないと感得するとしないとにかかわらず、生の無意味は厳然とそこにあるからである。

 

切実さ

演劇は切実に演じようとするほど切実ではなくなっていく。だから素晴らしい演技はしばしば無表情であったりする。ロベール・ブレッソンはこのことに少なくとも気が付いてはいた。

詩についても同じことが言える。自らの意識とか感性とかいうものをリアルに表現するために巧みな言葉を尽くせば尽くすほど、その言葉は切実さを失うことになる。

しかし切実さをめぐるこの問題は、表現することそれ自体に起因する。したがって詩や演劇は必ずこの問題を孕むことになる。だから"切実な"演技や"切実な"言葉を削ぎ落したからといって、それが回避できるわけではないのだ。

メソッド

何かを成し遂げるためのあらゆるメソッド・ノウハウの中で最も重要なのは、「とにかくやる」ということだ。この観点が抜けていては、どれだけ的確なメソッドであっても意味がない。

とは言っても、「とにかくやる」はただがむしゃらにやることではない。自分で考えながらとにかく手を動かしてみなければならない。そうして自分なりの行動の傾向性、メソッドがある程度構築されていなければ、数多くある既存のメソッドのどれが最も適当なのか知ることもできない。だからメソッドは常に「とにかくやる」から遅れている。

それゆえ、あるメソッドの重要性を理解し、実践することのできる人はそれをすでにある程度実践しているし、逆に本当にそのメソッドを必要としている人はそれを理解し実践することができないのだ。

思うに、多くの生徒は「とにかくやる」ことの重要性を学校で十分に教わらないまま、大学へ進学し、社会に出ているような気がする。教師が教えられることは、「とにかくやること」と、「とにかくやる」ための土台となる僅かな知識に過ぎない。

 

昔から自分は、~日に試験があるからその次の日には自分はもう遊んでいるはずだ、とありきたりな考えを巡らすときに、でもそれまでには勉強を十分にする必要があり、それをしなければならないのは他でもない自分なのだ、という意識が強くあった。