フリーな衝動に身を任せてみる

突然涼しくて気持ちいい日がやってきた。この独特の涼しさの匂いで、またそういう季節になったことを実感する(これは匂いではないかもしれない。もしくは匂いだけではないかもしれない。でもなんか匂いっぽいなとずっと思っている「感じ」だ)。決まって物悲しさも一緒にやってきて、考え事をするのに向いている時期だと思う。何か食べるとこの物悲しさが消えてしまうなと思うから、食べるということから遠ざかる時期でもある。

 

ジャズが好きなのでよく聴く。

ジャズは内なるエネルギーを飼い慣らして演奏に昇華させる、理性的な音楽である。これが好きなのだ。調和していて美しいし、調和させないという調和も醍醐味だ。ジャズは歴史の中で色々な変化をしているが、結局そういうものの積み重ねだと思う。ちなみに今くらいの時期はジャズが本当に合う。

 

だが、たまに、ウワーという気持ちになって、ジャズなんて聴きたくない!という風になる。理性的なものなんて実際クソだから、仕方ない。

そうして逆にクラシックに切り替えてみたり、普段から聴いているその他の音楽を聴くことも多いが、その中でもたまに、フリージャズを聴くことがある。

 

とりわけ好きなのはアルバートアイラーの『My Name Is Albert Ayler』というアルバム。最初の曲であるBye Bye Blackbirdは他の天才ミュージシャンが演奏すれば名曲になるスタンダードだ。しかしアイラーの手に掛かれば、泣いているような(鳴いているような)演奏になる。音色も汚いといえば汚いし、ジャズにおける最高のアルバムは?と聴いて挙げられたら納得するようなものではない(ちなみにこのアルバムのベーシストはペデルセンなのだが、なぜアイラーが彼を選んだのか不思議といえば不思議だ)。

でも、自分はこの演奏を良いと感じる。こういう頭のネジの外れた演奏も良い。ある文脈の中で美しくある音は、他の文脈でも常に美しいわけではない。当たり前だが、〜な音楽が良いという絶対的な法則はなく、ただ良い音楽は良いという事実しかいうことができない(余談だが、月ノ美兎が配信で似たようなことを言っていたのが印象に残っている。サブカル的な良さもこういう素朴な価値観によって担保されている面がある)。

 

感情的なものを感情的なまま出すのは、過激な試みだ。そして、そういう剥き出しのエネルギーは、まとまりがないので理性化されたエネルギーよりも弱い力しか持たないと思う。それでも、感情的になってみるのはそんなに悪いことではない。もちろんフリージャズというのはそれが演奏である以上、本当に完全に感情的になってはできないだろうが、頭のネジが数本外れる程度の狂気さえ見せずに平気な顔して生きていられる人間なんて果たしてどれだけいるのだろうか?

街中を歩いているときに笑いたいと思ったら、笑ってみれば良い。周りがどんな目で見るかは知らないが、その中で誰か1人にでも面白いと思われれば勝ちだし、誰も面白いと思わなくても自分が満足すれば勝ちだ。一度、自分の狂気と正直に向き合ってみてほしい。そして、街中で突然笑い出してみてほしいのだ。僕はやりませんが。